2008年6月度目次
 #919 「ドラクエ4」 原作をやったのが小学生時代……
 #920 「入梅」 梅雨前線〜バイオ前線。
 #921 「飛石連休」 寛容と残酷。
 #922 [Bad Rhythm] どうにもリズムが悪い。
 #923 「6月6日は何の日?」 6並びは縁起が悪いのか?
 #924 「尊大な態度」 糞生意気な小僧。
 #925 「蛹」 今年は価値観が揺らいでいる。
 #926 「誰でも良かった」 快楽無き自己目的殺人。
 #927 「読書感想文」 “破壊者ベンの誕生”と“グラスホッパー”。
 #928 「問責決議案」 参議院可決。
 #929 「一角獣」 ユニコーンみたいな鹿。
 #930 「13日の金曜日」 不吉な日?
 #931 「最高に丁度良い?」 2世の懊悩。
 #932 「鉄ちゃん的」 日暮里・舎人ライナー&東京メトロ副都心線。
 #933 「東北新幹線」 隣のおっさん。
 #934 「貧乏人は○○を食え」 ○○に入るのは?
 #935 「リアルな夢」 たまーに見ます。
 #936 「ピッツァ」 ピザを食って諫言が浮かぶ。
 #937 「Classic」 クラシック音楽の多くは著作権が切れている。
 #938 「子作りゲーム」 出産協定事件。
 #939 「ヨイトマケの唄」 意図せずカバーしたCDを2枚所持。
 #940 「汗」 暑がりには辛い季節です。
 #941 「邪魔者」 皆殺しのメロディーが流れ、ハンマーが振り下ろされる。
 #942 「土用の牛」 中国産鰻&飛騨牛。
 #943 「THE WORLD IS SANDPAPER」 ザラついた世の中。
 #944 「うまい棒」 茨城の製造工場で火災。
 #945 「ものぐさ太郎」 御伽草子より。
 #946 「武士は食わねど高楊枝」 やせ我慢の美学。

2008年6月30日(月)
駅日誌(946) 「武士は食わねど高楊枝」

土曜日の午前中に、久々に会社の同僚らとバスケットボールをしたのですが、昨日は寝てばっかりだった一因はこれか! 昨日はふくらはぎが筋肉痛でした。そして、それは今日も続いており、今朝出勤時に歩いている時に、ちょっとまだ筋肉痛だな、と思ったわけです。しかし、運動して汗をかくというのはやっぱりストレス解消になるようで、今日は比較的機嫌良く過ごす事が出来ました。ただただ暑くてかく汗とは雲泥の差です。
ただ、今日は仕事中に多少歩く事になったので、ちょっと歩き辛かったです。そして、今年入ったばかりの新入社員を連れていたのですが、その目の前でやたらと電車で座ったり休憩を取ったりするのも何だか恰好悪いなあと思い、電車では終始立ちっ放し、座っての休憩も取らずでした。
……武士は食わねど高楊枝! 後輩の前で無様な真似はあんまりしたくないのです。私は武士ではありませんが、会社で後輩にカメラの「接写モード」の説明をしている時に、「駅員さん(実際は本名です)は、“せっしゃ”って似合いますね!」(それは違う“せっしゃ=拙者”だろ!!)などと言われた事もありますし、会社に入ってすぐの頃に上司から、「AとBはどっちかと言うと公家だな。Cと駅員(これも実際は当然本名)は武家だ」などと言われた事もありますので、どちらかと言うと武士っぽいのでしょう。
それはともかく、どうも「武士は食わねど高楊枝」というか、私にはちょっと見栄っ張りな所があります。それも、自分を高貴に見せたいとか、立派に見せたいというよりも、やせ我慢みたいな所があります。

こんな事を書きながら、俺って粋な奴だなあ……などと悦に入っている、と。私はこういうタイプのナルシシストなのです。
                          駅員@日記に書くのは文字ではなく、恥である

2008年6月29日(日)
駅日誌(945) 「ものぐさ太郎」

室町時代〜江戸時代にかけて描かれた短編の絵入り物語という文学形式に、御伽草子というものがあります。いわゆる昔話の類が多いようで、その中に「ものぐさ太郎」という話があります。どうも、現代の昔話の中ではメジャーな位置にはないようで、私も読んだ事がないのですが、昔社会科か日本史の教科書で、「寝転んだ人が立っている人に指を指している図」の写真を見た事がある程度です。

ものぐさ太郎の粗筋は以下の通り。信濃国(長野)に、商売をするでもなく、畑をやるでもなく、一日中ごろごろと寝転がっているだけのものぐさ太郎という人がいて、普段は人から食べ物を恵んでもらって食い繋いでいるという体たらくだったそうです。
ある時、人から餅を5つ貰って、4つを食べて最後の1個は大事に取っておいたのですが、それがころころと転がってしまいました。しかし、それを拾いに行くのが面倒で、誰かが通りかかったら拾って貰おうと思いました。そこに、地頭が馬に乗って通りかかったので声をかけたのですが、地頭は無視して通り過ぎようとします。それに対して「馬から降りて拾うくらわけない事だろうに、とんだものぐさだ」などと言ったそうです。

私もものぐさ太郎の事を笑えません。
今日は雨ではなかったら、HONDA Collection Hallというのを見に行きたくて、ツインリンクもてぎに行こうと思っていたのですが、雨が降っていたので引き篭もっていました。そこで折角なので、久しくやっていない部屋の掃除をしようと思ったわけです。
しかし、それに着手しようとすると、どうにも眠気が……そこで二度寝。二度寝から目覚めた後、食事の後に始めようと思ったのですが、昨日買った本を読み始め、読み終わったら掃除をしようと思いつつ読んでいると、途中で眠くなり昼寝。目覚めて再び本を読み始め、終わったらもう夜でした。
どうも掃除をしようとすると、眠くなってしまうようです。駄目人間ではないか!! ものぐさ太郎の事を笑えません。掃除をしようとすると眠くなる……という事は眠れない夜に掃除を始めると、掃除がちょっと進む&眠くなるで丁度良さそうなので、明日以降、帰宅後にちょこっとずつ掃除をしようかな……

さて、ものぐさ太郎の話にはまだ続きがあります。
太郎の住む村に都から御触れがありました。村から一人京に働き手を寄越せと言うのです。厄介払いには勿怪の幸いとばかりに、太郎が派遣されました。
太郎は派遣先では真面目に役目をこなし、そろそろ帰郷という事になりました。が、太郎の目的は労働の他に、嫁を見付ける事にあったそうで、田舎から出て来た小汚い身なりで、嫁探しをします。
そこに通りかかった女に一目惚れし、追い駆け回すのですが、女は色々な謎掛けを含む歌等でそれを退けようとします。しかし、太郎は数々の謎掛けや歌を上手く返し、やがては観念させるという話だそうです。更には、太郎は、天皇の第二皇子で都落ちした人の子供だったとの事。

強引なストーリーだなあ……そして、内容的には、よっぽどデフォルメしない限りは、子供に聞かせる類の昔話ではないと思います。だから、今ではあまり語られる事の無い昔話なのか。
                                  駅員@醜いアヒルの子に近い話?

2008年6月29日(日)
駅日誌(944) 「うまい棒」

うまい棒という駄菓子があります。コーンを主原料とした棒状のスナック菓子です。希望小売価格は、発売された1979年から一貫して\10を守っています。昨今の原油価格高騰に伴うバイオ燃料への切り替えや、食糧危機等、コーンも値上げしていますから、うまい棒の価格も守られるのかどうか心配な所です。
そのうまい棒を販売している会社は、株式会社やおきんという会社です。注目すべきは「製造・販売」ではなく、「販売」をしている会社だという事。うまい棒のパッケージにも書かれているこの会社は、企画販売会社なのです。では、その製造をしている会社どこなのか? 茨城のリスカ株式会社という会社で製造しているそうです。
その事は今日知る事になりました。なんと、うまい棒(たこ焼味)を製造している工場で火災が発生したそうです。その会社がリスカと書かれていたので、おや? と思ったのです。うまい棒はやおきんではないか? 調べるまではてっきり私もやおきんが製造しているものだと思っていました。

それを調べている時に、ショックだった事があります。Yahoo検索で「リスカ」と入力して検索すると、一番上に出てきたのが、「自殺は防ぐことができる」という文字だった事です。
即ち、「リスカ」という固有名詞よりも、「リストカット」の略称の方が一般的であるという事、そして、その意味で「リスカ」と検索する人が如何に多いかという事です。
リストカットとは、自傷行為の一つで、文字通り、自分の手首を刃物で切り付ける事を指します。また、剃刀を持って手首を切り、失血死を狙うという自殺の手段でもあります。それを調べる人に読ませたい項目=予防策まで用意してある程多く調べられている事柄だとは……

そして、同時にむくむくと発生するもう一つのショック。インターネット検索にはよく、「○○を調べた人は△△も調べています」みたいな要素が頻出します。これは無論便利機能であり、検索実行のデータを蓄積すれば、自動的に反映される仕組を作る事も出来るのでしょう。しかし、同時にその気になれば、検索エンジンを持っている側には、無数の人の性癖や嗜好が手に取るように分かってしまうという事。
これは見ようによっては怖い事でもあります。見ず知らずの人が私が調べたがっている事を何もかも知っているという事なのです。もし突如、誰かが私のデータばかりを束ねた物を大量に印刷して空からばら撒いたら、私は恥ずかしくて外を出歩けません(そんな恥ずかしい事を調べているのか? というのは置いておいて)。

最後に、今回の最大のショックについて。やおきんは、うまい棒のパッケージに描かれたキャラクターが某キャラクターに似ている事を自覚しており、結構大胆だという事。やおきんのサイト内「駄菓子探偵局」というページ(FAQのコーナーです)に、「うまい棒のキャラクターってまさかドラえ…?」なんて質問があります。実際の所は特に名前は無いらしいですが、「うまえもん」が有力みたいです。
                                         駅員@うまい棒ショック

2008年6月27日(金)
駅日誌(943) 「THE WORLD IS SANDPAPER」

「自分が苦手だと思っている相手は、向こうもこちらを苦手だと思っている」……そんな言葉があります。もし、これの逆もまた真なりとすると、「自分が好ましく思っている相手は、向こうもこちらを好ましく思っている」という事になります。そんな馬鹿な……もしそうだったら、世の中にはストーカー被害等というものは発生しない筈です。というわけで、私は「苦手な相手は向こうもこちらを苦手だと思っている」というのも疑わしいと思っています。
故に、私が苦手だと思っているか、好ましく思っているかと関わり無く、向こうは私を苦手だと思っていたり、好ましく思っていたりするわけであり、他者が苦手だと思っているか、好ましく思っているかと関わり無く、私はその人を苦手だと思ったり、好ましく思ったりするのです。
……否、そんな2×2(苦苦/苦好/好苦/好好)というゲーム理論のような構造だったら世の中は単純なのですが、実際の世の中で最も多いのは、苦手でも好ましくも無い、無関心です。これが大多数なのです。例えば、日本には1億2,000万人の人口が居ますが、その中で私の事を知っている人はせいぜい多くて1,000人未満でしょう。
世の中の大半は無関心で埋まっています。特に、都会に居るとそう思います。先日、本を読みながら電車に乗っていると、ある駅で向かい側に座っていた肥った男が立ち上がり、電車を降りました。
その時その腰あたりから何かが落ちるのが視界に入ったので顔を上げると、ハンカチが落ちているのが見えました。ポケットから落ちたのでしょう。声をかけようかと思ったのですが、男は既にドアの所まで行き、出る寸前でした。今ならまだ間に合う……私は、そのハンカチが落ちたのを見て見ぬ振りをしている、男の両側に座っていた人たちを目にしました。そこで、何と言うか、声を掛ける事がその場の雰囲気に合っていない気がしてしまったのです。電車に乗っていた人々の誰もが一言も声を発せずに、電車はまた走り出しました。
私は空気を読み過ぎるという事はあまり好きではなく、寧ろ正しさの為には空気をぶっ壊してみたくなる性分だった筈なのに……人が物を落としても何も言えないとは。これでは空気を読んでいるのではなく、空気に飲まれているのではないか。
一つ、言い訳をさせて下さい。もっと前に、一度カードのような物を落とした人に、落し物を教えようとした事があります。その時には、その人には五月蝿そうにチラ見されただけで鹿頭されてしまいました。そのカードは、パスネットでした。きっともう度数が無かったのでしょう。ともすれば向こうは嫌味だと思っているかも知れません。嗚呼、ザラついた世の中です。その時の記憶が蘇り、声をかけるのが億劫になってしまいました。
                                 駅員@THE WORLD IS SANDPAPER

2008年6月26日(木)
駅日誌(942) 「土用の牛」

「土用の丑」とは、夏はコテコテした蒲焼きが売れなくて困ると言っていた鰻屋に、平賀源内が授けた知恵です。いや、別に今日は土用の丑でも何でもないのですがね。
土用の丑に鰻を食する習慣はその頃から一般化していったそうですが、実はそれ以前にも鰻は夏痩せ・夏バテに効く食物とされていたようです。古くは、三十六歌仙の一人大伴家持がこんな歌を詠んでいるそうです。「石麻呂に吾物申す夏痩によし云ふものぞむなき取り召せ」(石麻呂に物申す! 夏痩せに良いという物ぞ。鰻を取って食べなさい)。「むなき」が「うなぎ」だそうです。

タイトルは「土用の牛」と書きました。本日の日誌は、鰻と牛についてなので、誤変換に非ず。つい最近、飛騨牛の偽装事件と、鰻の偽装事件が起きました。飛騨牛は、飛騨牛を名乗れるグレードではない肉を飛騨牛に混ぜたり、古い肉を新しい肉に混ぜたりして売っていたとの事。一方、鰻は、中国産を三河一色産と偽って売っていたとの事です。よーけ出てくんなあ、次々と……
無論、騙す者が悪いのです。が、しかし、長らくばれないで通っていたという事は、高い金を払って食べた物が本当に美味しいのかどうか、そこを大多数の人が判断していなかった、判断出来ていなかったという事でもあります。名前や価格で、ついつい有難い物だと思い込んでしまうためでしょう。これも思い込みの為せる業です。人間の脳味噌には情報による補正機能があり、それが悪い方に働いた例です。
……偉そうな事をほざいておりますが、「駅員、貴様には判断出来るのか?」と問われると、私にも自信がありません。それどころか、自らも思い込みで色々な判断を誤っているのだろうなあ、と身につまされる思いです。

さて、この思い込みの力、このメカニズムは人をカルトに引き込んだり、洗脳したりするのに使われます。金を投げ打って、家庭をぶっ壊してでも胡散臭い宗教にのめり込んでしまう人がいるのもこのせいです。
しかし一方で、思い込みの力は、人を強くするものでもあります。プロスポーツ選手の中には、自己暗示で自分の力を引き出そうとする人もいますし、催眠療法等もこのメカニズムの応用です。「思い込み」の力は毒にも薬にもなるという事です。
アメリカ人なんかに、世の中を善と悪でスパッと分けたがる人がいますが、世の中はそんなスパッとしたものではなく、毒にも薬にもなるものが溢れているのだと思います。

                           駅員@当日誌も毒にも薬にもなる事を望んで

2008年6月25日(水)
駅日誌(941) 「邪魔者」

凶悪犯罪が若年齢化しているだの、最近の若い奴は危ないだのとよく言われますが、それは年齢には関係がないようです。
千葉県の柏で、77歳の爺様が、家族をハンマーで皆殺しにするという事件が起きました。
動機は長年連れ添った奥様に邪魔者扱いされる事だそうです。40年か50年か……それだけ長く連れ添っても殺したくなるものなのでしょうか。邪魔者だと思ってしまうものなのでしょうか。そもそも、もしかしたら御互い内心不満だらけだけども、それを隠し続けた何十年だったのかも知れません。
まあ、そこは人の家庭の事、マスコミの如く下世話な嘴突っ込みはやめておきましょう。
今回の事件で解せないのは、息子やその妻、更には孫まで殺してしまったという点です。妻が憎いのならば妻だけ殺せば良さそうなものです(無論、良くはないのですがね)。

邪魔者だからといって邪険にするのもどうかとは思いますが、人というのはひょんなキッカケで邪魔者になってしまう事もあるものです。この爺様に限らず、誰もが。私も突如「この野郎、邪魔だなあ」と思う事もありますし、その逆に私が突如邪魔者だと思われる事もあるでしょう。邪魔だと思う事も、邪魔だと思われる事もあって当然なのです。人は皆、露骨に邪魔者扱いしたり、邪魔者扱いされても殺したくなったりせず、それを抑えて生きているのです。

さて、ある人(以下A氏)が居ます。A氏は、上に居るとある人(以下B氏)を、崇拝しているのではないかというくらい重んじています。そりゃ、上の立場の人なので、重んじられて然るべきではあるのですが、A氏の場合、人によって重んじたり軽んじたりが目に見えて分かるのです。B氏は重んじるが、C氏は軽んじていたりするわけです。B氏に何らかの恩義があるという事なのかも知れませんがね。組織の論理で上下関係を重んじるのか、或いはそれを超越して重んじないのか、どちらかにしてくれればスッキリするのですが。
そこで心配なのは、もしもですが、「A氏がもしB氏に切り捨てられたらどうなるのか?」という事。もし、B氏とC氏が突如仲良くなって、一緒になってA氏を切り捨てたりしたらどうなるのだろう? と。
その場合、A氏は心が砕け散ってしまうのではないか(まさか、前述の爺様の如くはならないとは思いますが……)と危惧するのです。B氏がA氏をどういう風に見ているのかは実際の所は分かりません。懐に仕舞った刀だと思っているのか、腰に提げた巾着だと思っているのか。しかし、もしB氏が非情に徹した場合、A氏はB氏にとってスケープゴートに使うのに打って付けの存在でもあるのです。
                          駅員@こんな事を考えている私はきっと邪魔者

2008年6月24日(火)
駅日誌(940) 「汗」

私は汗っかきです。暑さと寒さならばいずれが我慢出来るかというと、圧倒的に寒さです。暑さは耐えられません。なので、今日のような暑い日に外を出歩くと、汗だくになってしまいます。それも、サラリーマンである以上は、スーツ……甚平みたいな恰好で仕事がしたいものです。江戸時代の絵等を見ると、町人が褌一丁で戸外(と言っても長屋の範囲くらいまでなのだと思いますが)をうろうろしていたりする図を目にします。羨ましい……

暑がりで汗っかきなのですが、さりとて、冷たい物ばかり口にするのも危ないです。胃腸も強靭な方では決してないのです。あんまりがぶがぶ行くと、今度は暑さに対する汗ではなく、脂汗をかきながらトイレに行く事になってしまいます。
この汗っかきぶりを見ると、「代謝が良いせいだ」と慰めの御言葉を下さる方も居ますが、特に熱い物・辛い物を食べている時の滝の様な汗を見ると、目を丸くされてしまいます。
昔はこんなに汗っかきではなかった気がするのですが……新陳代謝は年を取るにつれ悪くなる筈なのに、是如何に?
先ず、コンクリートジャングル東京は、私が育った地元よりも遥かに暑いという事があります。しかし、それ以外に温暖化のせいもあるでしょう。
温暖化が進むと、育たなくなる作物があると言いますが、それと同様に暑がりな人種も絶滅の危機にあるのではないか……自然淘汰の世界では、環境の変化に適応出来た者が生き延びて、出来なかった者が死に絶えます。きっと、未来人は暑がりか寒がりかで言えば、きっと寒がりなのでしょう。
ところがどっこい、温暖化が進み地球の気候が乱れると、氷河期に突入するという意見もあります。そうなったら、俺たちの時代だ!!
 ……というのは冗談にしても、温暖化は我々暑がりにとって死活問題なのです。
                         駅員@どういうわけか父は暑さよりも寒さが苦手

2008年6月23日(月)
駅日誌(939) 「ヨイトマケの唄」

三輪明宏の名曲「ヨイトマケの唄」という曲があります。
「ヨイトマケ」とは、土木作業員の事を指し、ともすれば差別的な言葉と取られる場合もあります。一時期の日本のメディアは、そういった差別的な表現を含む物を、その内容如何に関わらず、発禁や自粛にしていました。というわけで、この「ヨイトマケの唄」は、差別を助長する内容ではないのですが、2000年頃まで民放では放送されていなかった(NHKではあった)そうです。
しかし、2000年頃以降、桑田佳祐がカバーしたりして、民放でも流れるようになりました。私がこの歌を知ったのはこの頃です。私は、それが収録されているCD「TOP OF THE POPS」も持っていますし、今年買ったガガガSPのアルバム「声にすると赤っ恥」にも入っていました(因みに、この「声にすると赤っ恥」では、日産セレナのCMで使われている「にんげんっていいな」も入っています。カバー3曲/15曲)。良い歌ではあっても、別段それが収録されたCDを買おうとした事はないのですが、私の手元には、カバー曲として収録されているCDが2枚もある事になります。私が好む音楽に含まれるメッセージと、方向性が近いのかも知れません。

このような自粛関係は、文字媒体の世界でも嘗ては頻繁に行われ、「言葉狩り」なんて言われた事もあります。私は世の中にはタブーなんて無い方が良いと思っているので、言葉狩りには反対です。
が、しかし、それは悪意無き場合の話。
当日誌でも繰り返し書いている事ですが、ニュースなんかで事件が起きた時、犯人の職業について、ガテン系の職業はやけに具体的に書いてある気がします。旋盤工、塗装工、鳶……等々、彼らも何らかの組織に属している以上は「会社員」でしょうし、そうでない場合でも「自営業」なのに、妙に具体的に書いてある事が多い気がします。私には何となくそこに悪意が見えます。上っ面だけ見れば問題無い事に見えて、その実「ヨイトマケの唄」よりも遥かに規制されて然るべき悪意があるように見えるのです。
                                            駅員@穿ち過ぎ?

2008年6月22日(日)
駅日誌(938) 「子作りゲーム」

米国のマサチューセッツ州にあるグロスター高校というところで、女子生徒の間で、妊娠・出産・子育ての「協定」を結び、17人が妊娠していたという事件がありました。元々高校生の妊娠というのは零ではなかったそうですが、今年に入って急増したので学校が調べた所、この協定が明るみに出たそうです。父親は、同級生であったり、24歳のホームレスであったりしたそうです。こういう事が起きた背景について本当のところは分かりませんが、丁度米国では、ブリトニー・スピアーズの妹が17歳で女児を出産したという報道や、女子高生の妊娠をテーマにしたコメディ映画のヒットがあり、10代の妊娠がファッション化しているのではないか、という意見があるそうです。

さて、ここで非難されている事は、概ね以下の3つであると言えるでしょう。
@ルール上の「少女」が妊娠・出産する事。
A子供を産んでもちゃんと養えるのかという事。
B子作りがゲームのようになっているという事。

これらの内の@は、言ってしまえば「大人の都合」であり、寧ろ現実的にはAに集約されると言って良いと思います。
では、Aはどうか。この女生徒たちは家庭的に恵まれていないとの事。だとしたら、満足に養えるのかどうか。自分が家庭的に恵まれずに育ったのに、自分の子供が同様の憂き目に遭っても構わないのでしょうか? そこは心配です。父親の中にはホームレスまでいる始末ですし。それに関連して思うのは、米国という格差社会。米国は日本より遥かに、生まれた時から経済的な格差が厳然とあります。貧乏の子は貧乏。だから、養って行けるのか、と。で、24歳ホームレス、貴様ちゃんと働くんやろうな? と。
とは言え、養っていく覚悟があるのならば、貧しくとも良い。最大の問題はBでしょう。
何ていうか、こんな風に作られた子供は、ペットショップで買って来たペットと、感覚的に変わらないのではないか? そして心無い飼主に捨てられた哀れな犬のように捨てられてしまうのではないか? 私が最も危惧するのは、そこです。
                                         駅員@ごく普通の意見

2008年6月21日(土)
駅日誌(937) 「Classic」

クラシック音楽(Classical Music)という分野があります。18世紀末〜19世紀初頭にかけて作られた音楽で、バッハ、モーツァルト、ベートーベンといった音楽室に肖像画が飾られている人が作曲した音楽あたりがその代表的なものです。クラシックと言っても、ほんの2、300年程前に出来たものなのですね。無論、それまでにも音楽というものはあったのですが、体系的な音楽が出来たのがこの頃と言われています。
のだめカンタービレという漫画が売れたり、この数年はクラシックが俄かに再注目されていますね。CDも色々販売されていて、私もメジャーな曲ばかりを集めた物を持っています。平原綾香という歌手が「Jupiter」という曲で売れたのも、ほんの数年前の話です。この曲はギュスターヴ・ホルストという作曲家が作った管弦楽組曲「惑星」の中の一つで、その組曲中もっとも人気のある曲です。尚、組曲の構成は、火星・金星・水星・木星・土星・天王星・海王星の7曲構成で、ホルスト自身は土星が御気に入りだとか。
「Jupiter」とはその「木星」の事であり、それに日本語の歌詞を乗せた歌なのです。以降、CM等でこの曲をよく聞くようになりました。いや、元々良く使われていたが、ポップスで繰り返し流れる内に記憶に残り、気付き易くなっただけなのかも知れませんが。

さて、国際的な著作権の保護期間は、ベルヌ条約という条約で最短で著作権者の死後50年と定められ、各国ではそれを元にそれと同等或いはそれ以上の保護が与えられています。例えば、日本では50年、米国では70年です。
ホルストは死後74年経っていますので、著作権は消滅しています。ですから、この曲は無償で使っても良い事になるのです……という事は、例えば著作権者の死後50年を経ている曲に、私が歌詞を付けて、「俺の歌だ」と言い切れば、それは私の歌に出来るという事。平原綾香或いはそのプロデューサーが、そんなセコい考えだけで「Jupiter」を出したのだとは思いませんが、私も何らかの著作権切れインストゥルメンタル曲に勝手に歌詞でも付けて俺の歌にしてやろうか、なんてね。
                駅員@「惑星」に冥王星まであれば、当駅にピッタリだったのに

2008年6月20日(金)
駅日誌(936) 「ピッツァ」

会社の後輩が、仕事上の検証のため、職場でピザを焼いていました。丁度昼時にやる予定だと聞いていたので、昼食代を浮かすために、その試食を買って出ました。
条件を変えて、小型のピザを何枚か焼いて、私はそれを食べて、それらの違いについてコメントするという役回りです。後輩が焼いたピザをただ座して喰らうだけで、偉そうな意見を言うという、おいしい立場というか、後輩に悪いというか、そんなような役回りなわけです。それでも、多少は参考になる意見が言えたようなので、安心しました。食っておいて毒にも薬にもならない事を言うわけにはいきませんからね。

その中で、一つ気になった事があります。その後輩、その検証の目指すゴールについて、指示を出した者から十分に説明を受けていない様子だったのです。これはいかんよなあ……やっぱり仕事というのは、譬え部分的な業務であっても、全体像が見えないと、モチベーションや作業中の視点に影響が出ます。指示を出す立場の方(私よりも随分上の立場の人なのですが)に、ちょっと諫言しないといけないのではないか……
しかし、私のような棘のある人間が言うと、また機嫌を損ねてしまうかも知れません。
                                      駅員@だから私は嫌われる

2008年6月19日(木)
駅日誌(935) 「リアルな夢」

私はよく夢を見ます。いや、殆ど覚えてはいないので、見ている気がするというだけですが。それでも、極たまーに、何やらリアルな夢を見て、ハッと夜中に目が覚める事があります。今朝未明(昨日深夜)にもそんな事がありました。

眠りについて、長い長い話の夢を見ていた気がします。殆どは覚えては居ないのですが、目覚めた時に、長い夢だったなあと思ったのです。
その長い話が続いていた中で、私は自転車に乗り、何か切羽詰った理由で、急いでどこかに向かう必要が出て来ました。下り坂をシャーッと自転車で下っていると、車道の反対側の歩道で、自転車二台が曲がり角の出会い頭でぶつかりそうになり、二人の女性が喧嘩を始めました。その時、喧嘩のせいか何か分かりませんが、その二人の女性の内の一方が突然倒れ、何故か私が自転車を停めて、その倒れた女性を抱えて、近くにあったオープンテラスの喫茶店の、パラソルが立った座席まで運んで休ませるという夢を見たのです。

その運ぶ時の手の感触が余りにリアルで、ハッと目が覚めたのです。もう朝か!? と思ったのですが、まだ真っ暗で、時刻は夜中の3時前。眠りに就いてから2時間程しか経っていませんでした。うーむ、何だか長い話だった気がするのだが……「凄く長い夢でも、実はほんの一瞬に見ているのだ」というような話を聞いた事がありますが、なるほどと思った次第です。
それよりも、このリアルな夢は何か? 予知夢なのでしょうか? それとも何かの暗示なのか? 夢の権威と言えば、ジークムント・フロイトですが、こいつは、何でもかんでもセックスに結び付けようとする助平親父だからなあ……
まあ、考えても分からないので放っておきます。夢を分析するのが得意な方がいたら、教えて下さい。しかし、他人の夢の話ほどつまらないものは無いですよね。
                                          駅員@だったら書くな

2008年6月18日(水)
駅日誌(934) 「貧乏人は○○を食え」

「御承知の通りに戦争前は、米100%に対してまして麦は64%ぐらいのパーセンテージであります。それが今は米100に対して小麦は95、大麦は85というところになっております。そして、日本の国民全体の上から下と言っては何でございますが、大所得者も小所得者も同じ様な米・麦の比率でやっております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を食う、所得の多い人は込めを食うという様な、経済の原則に沿った方へ持って行きたいというのが、私の念願であります」
  〜池田勇人蔵相(当時・1950年)〜

この発言を拾ったマスコミが見出しとして作ったのが、かの有名な「貧乏人は麦を食え」です。しかし、昭和は遠くなりにけり。今現在、「貧乏人は麦を食え」なんて言ったら、「新聞読んでいないのか!!」と言われます。現在、麦、大豆、玉蜀黍、この辺りは軒並み価格上昇しているわけですから。
それに、古来麦はそんな貧しい食べ物ではありませんでした。では、古来貧乏人の炭水化物は何だったのか? それはジャガイモ、馬鈴薯です。いや、その場合に貧しいのは人ではなく、土地です。土地が痩せていると、穀物は育ちません。しかし、穀物の育たない土地でも馬鈴薯は育ちます。ですから昔のドイツやアイルランドでは余程の金持ち以外は馬鈴薯が主食だったと言います。

その馬鈴薯が今熱い。勿論、前述の穀物高のせいです。日本では幸い米は余る程ありますから、主食のメインは変わらないにしても、暫くは馬鈴薯関係の新しい食べ方なんかが出て来そうな予感です。例えば、ベビースターラーメン。本来は小麦粉が原料である訳ですが、今般馬鈴薯粉ベースのタイプが売られているそうです。こりゃあ、カルビー株買っておかんと! ……非上場でしたorz
今朝の日経新聞には、2008年上半期ヒット商品番付がありましたが、下半期にはジャガイモ関係が入るのではないか、と思うのですが如何でしょうか?
                                      駅員@貧乏人は麦を食うな

2008年6月17日(火)
駅日誌(933) 「東北新幹線」

月曜・火曜と山形に出張していました。仕事を済ませた後は、地場の市場を見て回ったりし、本日は普段よりも早い帰宅です。地域には地域の風物というものがありますので、出張って、本っ当に、良いものですね〜(水野晴郎氏の御冥福を御祈り申し上げます)。美味しい物を食べ、しっかり仕事をして、且つ東京よりもゆっくりとした時間。たまに出張をすると、気分がリフレッシュします。私みたいな根無し草には、そういう遠方への移動が癒しになるのだと思います。

さて、本日の日誌はその行きの新幹線での出来事を書こうと思います。
会社の人と一緒に新幹線に乗り込むと、三人掛けの椅子の窓側におっさんが一人座っていました。その隣が指定席だったので座ろうとすると、私が座る席の前に何やら大きな鞄が置いてあります。そこに進んで行くと、「あ、すいません」とか何とか言って網棚に上げるなり、自分の足元にどかすなりすれば良いのですが、それをしない。ちらちらと見ると「ああ、これ邪魔か?」と。「邪魔か?」やないやろうが! 「網棚に上げるか?」と言うので、わざわざ立ってもらうのも邪魔臭いので、私が網棚に上げました。
やがて、新幹線が走り出すと、そのおっさんが話し掛けてくるのです。うぬー、面倒臭いなあ。そして、何とも要領を得ないのは、彼は頭の中で分かっている事をちゃんと言葉に出来てないという事。暫く話を聞くまで一体何の話をしているのかがさっぱり分かりません。それを鹿頭するのも可哀想なので、生返事で話を聞いていたわけです。ふと思ったのは、この人が普段会話をしている相手には、言っている事がちゃんと伝わっているのか? という事。
普段無口で比較的孤独な私ですが、このおっさんみたいな状態というのも、本人に自覚があるのかないのかは別にして、物凄く孤独な事なのかも知れないな、などと思っていました。
               駅員@そのおっさん、昼間っから缶ビール何本か飲んでいました

2008年6月15日(日)
駅日誌(932) 「鉄ちゃん的」

私の中の乗り物好きが、私を外へと連れ出しました。つい昨日開通した「東京メトロ副都心線」と、前々から乗りたいと思っていた「日暮里・舎人ライナー」、この二つに乗って来ました。
何でも、鉄道好きには更に細かい分類が色々あるそうで、「乗鉄(ノリテツ)」だの「撮鉄(トリテツ)」だのという分類があるそうです。私は専らただ乗ってみたり、たまたまその場で撮れる写真を撮ったりするだけなので、ライトな部類だと思います。ノリテツの中には、全路線に乗り、全駅で降りてみる人も居る事でしょうし、トリテツの中には、橋やトンネルの出口でずっとベストショットを狙っている人も居るそうですが、そこまでの熱心さは私にはありません。

先ず、日暮里・舎人ライナーに乗りました。かなり高い位置を走るモノレールです。駅に入って、そして車両に乗って思ったのは、「ゆりかもめ」に似ているという事。モノレールであり、無人運転であり、似ていて当然なのかも知れませんが、私の最大の感想はそれでした。他の無人運転のモノレールよりも、「ゆりかもめ」とソックリなのです。しかし、「ゆりかもめ」よりも後に出来た分か、それとも路線利用者数の関係なのかは分かりませんが、明確に違う点があります。座席がゆったりしているという事。「ゆりかもめ」は誰が設計したのか、席が狭過ぎます。
そのモノレールに揺られ、西新井大師西という駅で降りました。私は神社仏閣にも多少興味があり、前々から西新井大師にも一度行ってみたいと思っていたのです。
駅から多少歩くとありました。道すがら思ったのは、この辺りはまるで昭和から時が止まっているようだ、という事。そんな筈は無く、よくよく見れば、ちゃんと平成以降に出来た物もあるのですが、どうにも年季を感じさせられました。
ふと、誰かが言っていた言葉を思い出します。「昭和の町・田端」西新井と田端は地理的にはそこそこ離れているのですが、「昭和の町」という響きが似合うという点で合致していると思います。
「こういう町もあって良いな」そう思いながら、歩いていたのですが、それはきっと私が余所者だから抱く感想なのでしょう。自分の身の周りは便利になって欲しいが、自分の住んでいない所には原風景が残っていて欲しい。こんなのはエゴなのだと思います。
西新井大師には存外、人が沢山居ました。それも老若男女が。境内には特殊な地蔵が何柱もあります。塩で埋もれた塩地蔵、柄杓とタワシの置かれた水洗い地蔵、そして、それらより一際大きな水子供養地蔵。水子供養地蔵の前には、私と年の変わらない若い男女が何人も居て、手を合わせていました。流産なのか、堕胎なのか……彼らは水子を供養する理由があるのです。
 
(左)日暮里・舎人ライナー           (右)西新井大師


寺を後にして移動し、副都心線の渋谷駅に向かいました。この駅舎は、安藤忠雄がデザインしたそうで、テーマは地中の宇宙船だそうです。特徴的なのは、その宇宙船の根幹を為すであろう、ラグビーボール形の部分です。しかし、ガッカリだったのは、その全容は模型では見られても、実物で見ることは出来ないという点。わざとそうしたのか、強度の関係からそうせざるを得なかったのか、それは分かりませんが、巨大な楕円形の構造物を見上げる事が出来る事を期待していたので、ちょっと期待外れでした。
冒頭のトリテツの話に戻りますが、トリテツにももう一つある様です。即ち「録鉄」、何やらスピーカーにマイクを当てている人を見掛けました。彼は発車ベルや駅内放送をコレクトするのを趣味にしているようです。しかし、誰も彼を馬鹿には出来ません。趣味というのは往々にして、それに興味の無い人にとっては下らないものなのです。そこに貴賎はありません。
 
(左)ラグビーボール形の一部?       (右)東武&メトロの新型車両。

                                          駅員@ライト鉄ちゃん

2008年6月14日(土)
駅日誌(931) 「最高に丁度良い?」

今朝、岩手・宮城において、大きな地震がありました。近年、私は自然災害を耳にする度に、地球がとうとう、その皮膚の上に寄生している憎たらしい虫=人間どもを疎ましく思っているのではないか、などと思ったりしています。いやいや、惑星に意思などあるのか?
今日は、そんな事を書こうかと思っていたのですが、まだ余震も続いていて、予断を許さない状況なので、様子見です。その代打として、最近どうにも気になっているCMがあったので、その事を書こうと思います。それはホンダ・フリード。

本田に限らず、日本の自動車メーカーは一つのプラットフォームから複数の車を生み出す事を得意にしています。なるべく合理的に車を作る術に長けているという事でしょう。ホンダ・フリードもその一つで、この5月に発売になったミニ・ミニバンです。恐らく、この車もフィットをベースとしたそのファミリーではないか、と思います。フィットベースのミニバンという事で、実質的にはモビリオの後継車種となります。
で、そのCMです。曰く「This is 最高に丁度良いホンダ」だそうで、「コンパクトカーの外寸で、ミニバンの居住性を両立」といったコンセプトのようです。なるほど、ホンダは先代フィットや現行オデッセイで「低床レイアウト」を売りの一つにしています。このフリードでもそのフロア設計でスペースを稼いで、居住性を確保しているという事でしょう。
しかし、昔から思うのですが、所詮水平方向の空間は限られているのだから、その外寸に3列シートは無理があるだろう……と思います。あんな所に7人フル乗車で事故ったりしたら、一体どうなってしまうのか? それも心配無いレベルにまで今日の安全技術は上がっているのでしょうか。これはこのフリードに限らず、小型ミニバン全てに言える事です。
更に言ってしまえば、最近は流行ではなくなりましたが、10年程前からしばらくミニバン全盛期がありました。猫も杓子もミニバン。そんな大勢乗れる車が本当に必要か? と思ったものです。まあ、これは私が家族を持った事がないから言える事なのかも知れません。まあ、「最高に丁度良い」のは人それぞれ、個々人の用途によって異なります。私にとっての丁度良いではないというだけの事でしょう。
話が逸れました。私は初めてそのCMを見た時から、この「最高に丁度良いホンダ」と言っている人、何だかジョン・レノンに似ているな〜、と思っていたのですが、画面の右下にBGMの説明があり、そこに「ショーン・レノン」と書いてあるではありませんか。そうか、ジョン・レノンの息子だったのか。これって、結構一般的には知られていた事なのでしょうか。調べてみると、アルバムを2枚も出しているそうです。

そう言えば、ショー・コスギの息子にケイン・コスギという人がいますが、その弟はシェイン・コスギといいます。メディアへの露出は兄よりもぐっと少ないので、私は初めてテレビでその名を見た時、何故か笑ってしまいました。ソックリさんかパロディかと思ったのです。
何故か、ショーン・レノンを見て、シェイン・コスギが頭に浮かんで来ました。
                           駅員@どの世界も2世はしんどいのだろうなあ

2008年6月13日(金)
駅日誌(930) 「13日の金曜日」

今日は13日の金曜日ですね。ジェイソンがナタを振るう日です。ジェイソンというと、何となくチェーンソーというイメージがありますが、実はジェイソンはチェーンソーを使った事がありません。これ、以前書いた「星一徹はちゃぶ台を故意に引っ繰り返した事はない」というのと同様、人間の思い込みの強力さを思い知らされます。
13日の金曜日はジーザスがゴルゴダの丘で磔刑に処された日だという説があります。また、一方で金曜日は金曜日だったが日付は違っていて、その金曜日と、最後の晩餐で12使徒の次に座っていた裏切者のユダを指す13が合わさったのだという説もあります。とにかく、不吉な日であるとされているようです。

ところが、オランダで行われた統計によると、13日の金曜日は他の日よりも交通事故・火事・盗難の数が少ないそうです。どこが不吉やねん……それとも、不吉だから気を付けているって事なのでしょうか?
しかし、冒頭で述べたような思い込みを、強引に引っ繰り返して、常識外れな考え方をしてみましょう。13日の金曜日は、不吉な日に合わせて、何らかの不正のために、事故・火事・盗難が起こるのを望んでいる人が沢山居たりして。
彼らの悪どい企みは、それらが起きてこそ成就する性質のものだとしたら、不幸な目にあった人が多いという事になってしまいます。事故・火事・盗難が起きて喜ぶ人。高額保険をかけている人、というのはどうでしょう。即ち、保険金をせしめようという魂胆です。
まあ、そんな特殊な人はそんな沢山居ないのだとは思いますが。
                                           駅員@捻くれた見方

2008年6月12日(木)
駅日誌(929) 「一角獣」

ヨーロッパの神話に出て来る馬の妖精・妖怪の中に、ユニコーンというのが居ます。英語表記でUnicornです。UNOというカードゲームがありますが、あれは、イタリア語で「1」という意味ですから、Unicornの「Uni」は恐らく1という意味で、「Corn」が「角」なのでしょうか。馬の頭の中央にドリル状の一本の角が生えているという外観です。何でも、その角を池や泉に浸けると、水が綺麗になるそうです。
帰宅してYahoo!のニュースで見たのですが、イタリアでこのユニコーンのような角の生え方をした鹿が見付ったそうです。突然変異体なのだとは思いますが、こういう動物が居る以上、ユニコーンが伝説上の動物であるとは、強ち言い切れないのかも知れません。太古の昔には、本当に居たとしても不思議ではないのです。もしかしたら、竜やなんかといった他の空想上の動物も居たのかも知れませんね(古代には、恐竜の末裔が居たかも知れないのです)。

さて、空想上の動物の中に、夢を食べる獏という動物が居ます。何やら個性的な顔をした実在の動物にバクというのが居ますが、厳密に言うと、獏は夢を食べても、バクは夢を食べません。これは、たまたま空想上の動物と似た動物に初めて出会った東洋人に命名されただけなのです。これは、麒麟にも言えます。麒麟という空想上の動物があって、キリン=ジラフを初めて見た東洋人が、「これこそが麒麟に違いない」と命名したのです。そういう意味では、日本の珍獣の一つ、ツチノコの命名もそういった伝説に因んでいます。元来日本神話に野槌という巨大な蛇が出てくるのですが、その子供というニュアンスなのです。因みに、ノヅチはゲゲゲの鬼太郎にも登場しており、筒状の体をして、目鼻は無く、口だけがあり、口の周りに髭が生えた姿で描かれています。
                               駅員@今日の日誌はちょっとオタッキー

2008年6月11日(水)
駅日誌(928) 「問責決議案」

参議院に福田首相の問責決議案が提出され、民主党を始めとした野党の賛成多数で可決しました。問責理由は、後期高齢者医療制度。因みに、厚生労働省に知人がいるのですが、彼はちゃんと長寿医療制度と言っていました。
日本では、これまで不信任決議案は可決した事があるのですが、問責決議案の可決は初めての事です(首相以外の大臣ではあります)。この「問責決議案」と「不信任決議案」何やらそっくりな響きですが、その実体も似ています。何れも、可決しても法的な拘束力はなく、あくまで「その駄目出しもはもっともである」と明示されたという状態です。違うのは、「不信任決議案」は衆議院用、「問責決議案」は参議院用という点です。
果たして、福田内閣はどうなってしまうのか。実は福田氏、官房長官時代にも問責決議案を食らっています(その時は否決でしたが)。

それにしても、昔の政治家と今の政治家って、顔が違うと思いませんか?
顔の凄みが違う気がするのです。福田康夫首相の父である福田赳夫も、何やら一筋縄ではやられないような老獪な顔をしたオヤジだった気がするのに、福田康夫は何やら虚ろな目をしているという感じがします。そりゃ、昔の政治家も今の政治家も、悪い事もすりゃ、ずるい事も、情けない事もしているのですが、最終目的が何なのかという根本的な信念を持っているかどうか、そこが違うのではないかと思います。
とか言いながら、人を見た目で判断してはいけないのもまた然り。私自身、見た目で損をしている側だったりします。
                                   駅員@解散総選挙は遠くない?

2008年6月10日(火)
駅日誌(927) 「読書感想文」

先日、本屋で気になる文庫本があったので購入しました。そのタイトルは「破壊者ベンの誕生」。ノーベル文学賞を受賞したドリス・レッシングという人が、1988年に書いた小説です。粗筋は次のようなものです。

ある古風な男女が結婚し、大きな家に沢山の子供という家庭を夢見ます。次々に妻は妊娠し、4人の子供をもうけます。経済的には決して楽とは言えず、寧ろ無理をして買った大きな家のローンで生活は厳しいのですが、イースターや夏休み、クリスマスの度に親戚が集まり、金は無くとも一つの幸福を享受していました。
そして、そこに5人目の妊娠です。上の兄姉と違って、この妊娠は苦痛を極めました。妊娠の経過よりも明らかに早く腹が大きくなり、胎児が動きます。こりゃ、よっぽど元気な子が生まれて来るに違いない……そう思いきや、生まれて来たのはどこか異質な存在でした。やたら大きな赤子として生まれ、泣声ではなく、不気味な唸りを上げる粗暴なその赤子は、幸せだった家族を不幸に導きます。生後一年に満たない内に年子の兄よりも強靭な力を持ち、ベビーベッドに近付いた兄の腕を強引に引っ張り捻挫させます。やがて、その凶暴性が膨らんで行きます。その子供こそがタイトルにあるベンなのです。
痺れを切らした夫はその子を施設に入所させます。しかし、妻はその場所も教えられません。如何に嫌悪感を持って見てしまっていても、腹を痛めて産んだ我が子なので、連れ戻したいと思っているのです。何とかその場所を知った妻は、ベンを取り戻しに行きます。その施設の描写がなかなか凄惨で、鳥肌が立ちます。
家族の下に戻って学校に通うようになって、ベンはこれから一体どうやって生きていくのか……その段階で物語は終わります。


この小説は、リアルな社会派小説であり、それでいて寓話であり、ホラーであり、ヒューマンドラマであり……世の名作は単純にはカテゴライズ出来ないと申しますが、この作品もその例に漏れないと思います。私は、カフカの「変身」を連想しました。それを虫ではなく、あくまで人間とした事により、ぞっとするようなリアリティがあります。読むとちょっと凹みます。そして、余程気丈でない限り、妊婦には読ませてはいけない本だと思いました(女性は存外逞しいので、弱男の杞憂なのかも知れませんが)。

先週末にも1冊読みました。最近御気に入りの伊坂幸太郎の「グラスホッパー」という作品です。その前に読んだ「重力ピエロ」や「死神の精度」の時にも朧気に感じていた事なのですが、「グラスホッパー」で確信に変わりました。
この作家は、文字で漫画を書いているのだと。昨今の漫画は、小説を食うぐらいのストーリーテリングを備えています。「20世紀少年」等を読むと特にそう感じます。文字で書いてあっても、漫画的手法の良い所を取り入れている、とそう感じます。
そして、今回も矢張り伏線の張り巡らせ方に唸らされました。この作家の作品はもっと読みたいです。
           駅員@読書量が増えたのは、5月に雨の週末が多かったせいでしょうか

2008年6月10日(火)
駅日誌(926) 「誰でも良かった」

誰でも良かった。トラックでホコ天に突入し、走り回ってナイフを振りかざした凶暴な獣は、そう言いました。
最近、多いですね、自己目的殺人。何かの目的に至る手段ではなく、殺人自体が目的の殺人。巷では「快楽殺人」という表現もありますが、ここ数年よく耳にする「誰でも良かった」殺人は快楽殺人とはちょっと違います。
「誰でも良かった」殺人にも変遷があると感じます。最初は、ちゃんと目的があっての「誰でも良かった」(「ちゃんと」と言うと語弊はありますが)……即ち、金なのか、体なのか、「この人でないと」という程の縛りではなく、ある程度の範囲内での「誰でも良かった」(金をもっている、若い女である、等)です。
続いて、殺人自体が目的の「誰でも良かった」にも2通りがあり、快楽を得る「手段」とした「快楽殺人」と、殺人自体に快楽を覚えるわけではないが、せずに居れなくなってやってしまったという殺人。この2つはまた違うものだという印象です。
今回、秋葉原で暴走した男は、殺人に快楽を覚えていたのではなく、殺人により、内的に或いは外的に何かが起こる、何かが変わると思い込んで暴走してしまったのではないかと思います。しかし、人間は業深き生物ですから、それは誇大妄想というもの。人殺しに幻想を抱き過ぎているのだと思います。その行為を行う事で、何か劇的な変化がその殺人者本人にあるかというと、実はそんな事はないのだと思います。強いて言えば、本人に訪れる劇的な変化は、実行直前に訪れているのでしょう。
但し、被害に遭った人、或いはその知人には劇的な変化が訪れては居ますから、そういった影響を他に与えた事で、或いは与えたと思う事で、殺人者には何らかの満足があるのだとしたら、それが現代風の「誰でも良かった」殺人なのではないか、と思います。

しかし、最近よく思うのは、そういう事件で被害に遭った方々も、加害した者も、自分と紙一重だという事です。被害者は勿論、加害者も。「俺は絶対に人殺しをしない」口で言うだけなら言えますが、果たして本当にそうだろうか?
いきなり、何の伏線も無く、殺されてしまう事も、殺してしまう事も、あり得ない事ではありません。明日くたばるかも知れないし、明日人を殺してしまうかも知れないのです(過失を含めれば、強ち無いとも言い切れません)。そこには「何故?」に説明を付ける理由などなかったりする事もあるのでしょう。
だからこそ、マスメディアは、昔の卒業文集から同級生のコメントから何からを拾い集め、「犯罪者の心の闇」とやらを捜すのに躍起になります。
それはメディアの送り手は勿論、受け手も、「人殺しと私は、別物である」と思いたいからです。だから、何らかの理由を見付けては、「こいつはこうだから人殺しで、私は違うから大丈夫だ」と思いたいのです。
私は敢えて言います。紙一重なのだ、と。その一枚の紙は簡単に破れそうで、簡単には破れず。かと言って簡単には破れないと思い込んでいたらいとも容易く破れます。ん? 「紙」と「神」、奇しくも同じ音の言葉なのですね。この紙一重が保たれているかどうか、それが、神の存在の有無という事を指しているのかも知れません。
                                                駅員@合掌

2008年6月8日(日)
駅日誌(925) 「蛹」

公務員をやっている大学のゼミが一緒だった人と久々に会って食事をしました。大学の友人との集まりでは、私が店をセッティングする事が多いのですが、今回はその友人が店を決め、予約も入れていてくれました。
とはいえ、酒に弱い私よりもさらに輪をかけて弱い男なので、昼に酒抜きでです。何も「人と会えば酒を飲む」という程の酒好きでもないので、それはそれで構わないのです。食事の後、喫茶店で多少会話をしてから、彼は仕事に向かいました。忙しいのだな。夜も日付が変わるまで職場で働いている事もザラだそうです。本来ならば、これだけ日々に疲れている彼を元気付けられれば良かったのですが、いま一つ会話も盛り上げられず、何やら別れ際もぎこちなくなってしまいました。
最近、どうも以前にも増して人付き合いが下手になっている気がします。
いや、人付き合いの上手下手は変わっておらず、私が自分の不器用さ加減をより正確に把握するようになってきているという事なのかも知れません。

こんな事を考える事があります。以前、私は「被依存依存症である」と書いた事がありますが、その一方で、私のやっている事が正しい事なのかどうか、疑念を挟みつつあります。というのは、営業部門等の私より若い人間がたまに私に相談に来るのを、内心誇らしく思っており、極力的確な助言を出すようにしていたのですが、それはもしかしたら組織全体から見て果たして良い事なのか? 悪い事なのか? という迷いです。即ち、彼らが訊き易い私に相談に来る事は、苦言も呈するであろう彼らの上司なり先輩に相談する機会を削り、組織で動くという事を阻害している事になるのではないか、と。

ちょっとずれた例を2つ並べました。これらは、最近世界が、或いは私の世界の捉え方が変わってしまったように感じる事が度々あるという事を示した例なのです。昔は私の中で正義はわりとハッキリしており、もっと決然と行動出来る人間だった気がするのですが、そういった価値観がぐらぐらと揺らいでいる……そんな風に感じるのです。考えすぎなら良いのですが。ともあれ、2008年はどうも私にとって蛹の年になっている気がします。
                     駅員@蛹から出てくるのは蝶か? 蛾か? それとも?

2008年6月7日(土)
駅日誌(924) 「尊大な態度」

私はどうも、目上の人に尊大な態度をとってしまうようです。人を食った小僧といった所でしょうか。しかし、それも詰め将棋の如く、目上の人間を理詰めで追い込めれば良いのですが、どうも詰めが甘いようで、尊大な態度を取りながら、結局やられるという事が多いです。
本日は仕事で知り合った方々と飲む機会がありました。大多数が年上という状況だったわけですが、何やら不敵なコメントを吐き出し過ぎました。表面上は笑って許して貰っているようなのですが、中には心から「この野郎」と思っている人もいるかも知れません。あなおそろしや。
その一方で、こんな生意気で、気の利いたコメントも出来ず、パッと見ムスッとしているのに、色々な人がこんな禄でもない小僧の相手をしてくれるのは非常に有難い事です。如何に自分が周りに救われているかが分かります。自分は、他力本願よりも自力本願が好きで、仕事等はなるべく自力本願で生きているのですが……その筈なのに、実は色々な人の好意の下に他力本願で生きているのだな、と思います。
人は一人では生きていけない……か。自分が色々な人から救われている以上、私も色々な人を救う側に回らんとなあ、と思います。
                                             駅員@糞生意気

2008年6月6日(金)
駅日誌(923) 「6月6日は何の日?」

ダミアン君の誕生日です。ダミアン君はその日の朝6時に生まれました。666という字を表したホクロを持った悪魔の子です(オーメンより)。
さて、この666という数字が悪魔の数字という出所は何でしょうか? 初出と言われているのは、新約聖書のヨハネの黙示録の中で「獣の数字」と書かれている所です。という事は、不吉極まりない6並び……2006年6月6日6時6分6秒に、六本木6丁目6番6号では何事か起こったかも知れません。悪魔が降臨していたりして……と思いながらネットで2006年6月6日と検索してみると、なんとその日にその場に行ってみた人がいるとの事。ようやるなあ、と。

しかし、365日全ての日に複数の「○○の日」があるものでして、他にも様々なものがあるようです。
例えば、聴いた話では、6月6日はロールケーキの日だそうです。ロールケーキの「ロ」とその巻いた形状から。というわけで、今日は会社の同じ部署の姐御様が、仕事絡みでロールケーキを購入し、私にも食わせてくれました。百貨店等で、このロールケーキの日に因み、その前後暫くロールケーキフェアのようなものを実施しているそうです。
他には、高杉晋作が奇兵隊を作った日、ノルマンディー上陸作戦の日、楽器の日なんてのもあるそうです。楽器の日の由来は、二分音符に見立てたのかな? と思いきや、昔から芸事は6歳の6月6日から始めると上達しやすいと言われているからだそうです。奇しくも、オーメン同様6が3つ並んでいるのですが、こちらは良い事とされているようです。
まあ、所詮は日付も数字も人間がたまたま作っただけのもの。
日付による特殊性なんかはただの縁起担ぎに過ぎません。しかし、まだ御子様が6歳になっていない方は、6歳になった年の6月6日に何か始めさせてみては如何でしょうか?
                   駅員@演技担ぎとは言え、メンタルへの影響はあるでしょう

2008年6月5日(木)
駅日誌(922) 「Bad Rhythm」

リズムが合わない人というのは居るものです。先日は、リズムを合わせるのに苦労する人が2人居る状態で得意先に行ったので、結構疲れました。言葉を出しかけて飲み込む事が幾度とあり、うずうずしてしまいました。
その2人の内の1人からは、「俺が喋っている時に口を挟むな」と言われてから、特にそういう場面が増えています。そういう風に咎められた時は、その人がまどろっこしい喋り方をするので、堪え切れなくなって、ついついサクサクと口を挟んでしまったのです。
しかし、もしかしたら、私のリズムがスタンダードから外れているのかも知れません。向こうのリズムが悪いのか? 私のリズムが悪いのか? 果たして……
                         駅員@最近、色々な事が分からなくなっています

2008年6月4日(水)
駅日誌(921) 「飛石連休」

芸人が湯水の如く使い捨てられる昨今、小島よしおも、世界のナベアツも、今はメディアへの露出が多いですが、来年にはもういないかも知れないという、そんな世の中です。これも、芸人が増え過ぎてしまった事によります。何でそんなに志願者が出るのか、理解に苦しみます。本来、芸で飯を食って行こうと思ったら、サラリーマンとは比較にならないくらいの努力が必要なのです。
そんな、最近見なくなった芸人の中に、飛石連休という漫才コンビがいます。小柄で子泣き爺のような風貌のボケと、驢馬のような顔をしたツッコミのコンビです。何年も前にはメディアへの露出もそこそこあったので、覚えている人は覚えているかも知れませんが、覚えていない人が大多数でしょう。

街を歩いていると、遠くに何やら黒ずくめの服に黄色い長髪の人が立っているのが見えました。何ぞ? と思ってよく見ると、その恰好は銀河鉄道999のメーテルの恰好でした。コスプレイヤーというやつか……その傍には、小柄な男も立っています。カウボーイのような恰好……テツロウのコスプレイヤーか。そこに地味な人が駆け寄ってきました。見るからに何らかのスタッフ。よく見るとそのコスプレコンビは、前述の漫才コンビ・飛石連休だったのです。
場所は都心のビジネス街ですから、彼らがちゃんとテレビにも出た事がある芸人だと気付いている人は少ないのかも知れません。諸行無常というものです。昨今、昔よりもカタギの道を避ける人が増えている気がするのは、気のせいでしょうか? その多くがドロップアウトしてしまうわけですが、彼らがオーバーフローしたら、この世はどうなってしまうのだろう? と心配になります。
昔ならば、早くに諦めが付いて軌道修正する事も出来たのかも知れませんが、昨今の使い捨て風潮はあまりに残酷だと思います。狭き門に集まるわけですから、敗者が出るのはしょうがない事なのですが、現在の風潮は「狭き門の入口を広げて、出口が狭いのではなく、出口に至る通り道に無数のダストシュートが設けられている」と、そんな風に見えます。安倍総理時代に出た「再チャレンジ」という言葉がありましたが、昨今は入口のチャンスは広げながら、再チャレンジのチャンスは少なくなっている気がします。
そんな使い捨て的風潮を強めてしまったのが、「エンタの神様」とか「笑いの金メダル」といった番組だと私は思います。なるほど、多くの若手芸人にチャンスを与える面では、良い事なのかも知れません。しかし、一旦テレビに出て多少人気を博してしまうと、なかなかそこからの離脱が困難になるのもまた事実。一体、優しい事なのか、残酷な事なのか、判断が難しいですね。

「優しい事」と「残酷な事」これは表裏一体です。私は普段毒のある事をほざきながら、自分より立場の弱い人間にはなるべく優しくありたいと常に思っているのですが、それももしかしたら残酷な甘やかしなのかも知れません。判断が難しいです。
                     駅員@優しさを御節介と思われている事もあろうしなあ

2008年6月3日(火)
駅日誌(920) 「入梅」

今年は例年よりも早い入梅となりました。とはいっても、入梅前から雨ばっかり降っていたような気もします。
梅雨とは、日本に「梅雨前線」が乗っかった状態を指します。私は子供の頃、「梅雨前線」という言葉を「バイオ前線」だと思っていた事があります。そう言えば、細菌が増殖している様を映した映像と、雨雲の動きを映した映像が似ていたり、黴が生えやすい季節だったり、強引にこじつければ、後付でいくらでも勘違いの理由を作れそうな気がします。が、実際には当時何故そんな風に思っていたのかはさっぱり分かりません。それにしても、「バイオ」なんて言葉をよく知っていたなあ、というものですが、当時丁度メディア上に「バイオ」という言葉が出始めていた頃だったのでしょう。

あれから幾年月。2000年代に入ってから……特に近年「バイオ」という言葉をよく耳にします。代表的なのはバイオエタノール。主にトウモロコシを原料とした燃料です。そのきっかけは地球温暖化に対するCO2排出量の削減と、原油価格高騰です。
植物を原料とする事で、大気中に新たCO2を排出する事を抑止出来(植物が育つ過程で光合成によりCO2を体内に固定し、それを燃料に使っても、固定されたものが大気に変えるだけなので、一つのサイクルで見れば、排出は無いという考え方です)、且つ化石燃料の使用を抑制出来るとの事。
一方、トウモロコシは元来食糧です。イタリアで食糧サミットが開かれていますが、そちらにも影響が出ています。物の値段は基本的に需要と供給のバランスで決まりますが、これまで無かった需要が発生すれば、当然その分供給に対する需要が増え、価格は上昇します。それがまさしく今起こっています。身の周りでも値上がりした食品は山のようにあります。世の中には今日食べる物も無い人が沢山いるわけですが、需要に対して供給が不足すれば、彼らにはますます食糧が回らなくなってしまいます。

バイオエタノールという物は以前からありはしました。穀物から酒(アルコール)が出来るのを見ても、そう難しい事ではなさそうに思います。しかし、燃料として導入されたのは最近です。石油よりも随分高かったからです。何ぼ、環境配慮と言っても、手の届かない程高い燃料へのニーズは少ないのです。そのため、インフラ整備もされていませんでした。
それがここに来て普及しだしたのは、一つはCO2排出規制の強化もありますが、矢張り原油価格の高騰が大きいでしょう。植物燃料との価格差がなくなったのです。そう言えば、最近またガソリンが高くなりましたね。私の愛車はハイオク仕様なので参ります。
では、原油価格が高騰しているのは何故か? 先程、需要と供給の話を書きましたが、原油もそれによります。BRICs、VISTA等の新興成長国、特に人口10億の中国とインドの経済発展による需要の増加が影響しています。
しかし、需要と供給の問題以外に、「投機」による価格上昇があります。そして、それは金余りに由来しています。エコノミックアニマルの欲望天井知らずでして、余っている金はどこかにぶち込まれて利殖される仕組になっているのです。当の富豪にそういう意識があるかないかに関わらず、銀行に預けてあるだけで、それは投資に回っているのです。これは資本主義社会の宿命なのかも知れません。

植物燃料と言えば、戦時中の日本には木炭自動車なるものがあったそうです。ABCD包囲網で資源を輸入出来なくなった日本は、炭で走る車を作っちゃったそうです。臭いわ遅いわという散々な物だったそうですが、これってもしかしたらトウモロコシを使って走る車よりも随分画期的な物だったのかも知れません。
                             駅員@「ばいう」の話から「バイオ」の話へ

2008年6月1日(日)
駅日誌(919) 「ドラクエ4」

正月に帰省した折、ジモトモ(地元の友人。この表現の定着を狙っているのですが、現状いま一つです……)から、任天堂DSを手に入れた事は、以前当日誌に書きました。それ以降、古本屋や電気屋に行った折には、ゲーム売場も覗くようにしています。5月前半のある日、ブックオフで文庫本を物色していた折にもゲーム売場を覗きました。
「ドラゴンクエスト4」というソフトが中古で\3,000前後で売られていたので、懐かしさもあり購入。それから、夜や休日にちょっとずつやって今日に至っています。リアルタイムでファミコンソフトのドラクエ4をやったのが、小学生時代。20年程前のゲームという事になります。光陰矢の如しですね。20年も前なのです。

さて、やってみると、子供の頃の記憶は強く残っているせいか、それとも当時のゲームは現在よりも単純だったせいか、結構覚えているものです。ここでこうやってあそこでああやって……子供の頃の記憶の追体験という気がします。
しかし、ファミコン当時と違う点があります。そりゃ、映像処理やCGによる演出もそうなのですが、最大の違いはファミコン版では、第五章では、主人公以外は「作戦」に沿ってAI(人工知能)で行動を取るのですが、DS版では、「命令させろ」という「作戦」を選べるという点。これがあるのとないのとでは、多彩な行動を選べる僧侶・魔法使い系キャラクターの使い勝手が天と地程も違います。補助系の呪文(味方の能力を上げたり、敵の能力を下げたりというもの)が上手く使えるとこんなに楽に進められるのか、と。いや、待てよ? 仮に小学生の当時「命令させろ」があっても、果たして有効に使えたかどうか? 当時はあんまり補助系呪文を使っていなかったような気もします。戦術を駆使せず、武闘派戦闘ばかりしていたような気もします……
また、AI自体も賢くなっているという印象が強いです。というのは、敵グループ内での標的選びが賢くなっているのです。誰かが攻撃して、あと一撃で倒せる敵を確実に狙って先に倒そうとしてくれます。以前なら、敵Aと敵Bがいた時に、敵Aの残HPが殆ど無くて、敵Aを倒してしまえば、次ターンで被るであろう被害を少なく出来るのに、わざわざ敵Bを狙ってしまうケースも散見されたのですが、そういうのが減った気がします。
言葉で書いても分かり難いですね……
歩行速度が速いのも助かります。この御陰でテンポ良くゲームが出来ました。
あと、原作で圧倒的に使えないキャラクターだったトルネコが、随分使えるキャラクターになったと思います。戦闘時に敵から宝箱を奪う確率も上がった気がしますし、リメイク版ドラクエ3に登場した「盗賊」の特技を持っていたりして、万年Bクラス(馬車入り浸り)ではなくなりました。特に「たからのにおい」は役に立ちます。


そして、今日最終ボスであるデスピサロを倒したところです。クリア後にもセーブが出来、その「冒険の書」は第六章になっていました。ここからも続きがある様子です。原作は何とも哀しく後味の良くない終わり方だったのですが、それを救済するようなラストが用意されているという事でしょうか。
2007年に発売された製品ですし、PS版も以前に発売されていますから、その辺の事はきっともう御存知の方も居られる事でしょう。しかし、私はまだダイレクトに小学生の頃に戻ったような心地なので、そっとして置いて下さいね。
                              駅員@5と6もDSで発売されるそうですね
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