2009年9月度目次
 #1212 「久々の更新」 筆折ってもう三ヶ月。
 #1213 「東海道五十三次(1)」 日本橋〜品川宿〜川崎宿〜神奈川宿。
 #1214 「東海道五十三次(2)」 神奈川宿〜保土ヶ谷宿〜戸塚宿〜藤沢宿。

2009年9月29日(火)
駅日誌(1214) 「東海道五十三次(2)」

昨日の日誌に書いた、連休の東海道歩きの続きです。
横浜に泊まるのも何だかなあ、という事で一旦帰った翌日。再びそれと同じ路線に乗って横浜へ。
横浜駅から出て西へ歩き、街道に復帰。環状一号線の脇にある旧街道を歩きます。しばらく行くと、そのまま保土ヶ谷宿に着き、その通りは商店街になっています。
ここの商店街は旧街道にあるにも関わらず活気があり、前日に通った品川宿の商店街とは全く違いました。特に八百屋に活気がありました。商店街の外れで軽い昼食を済ませ(またしても街道歩きらしいものは食べられず。レトルト味のカレーでした……)、そのまま道なりに歩いて行くと、帷子川です。
帷子川に緋鯉の姿が見えたので見下ろすと、それまでは気が付かなかったのですが、黒い鯉がうじゃうじゃと橋の下に群れていました。皆一様にこちらを見て口をパクパクしています。この橋から餌を与えられているのでしょう。しかし、余りに数が多過ぎてグロテスクでした。
川を越えると相鉄の天王町駅があり、そのガードをくぐります。くぐった先には旧帷子橋跡として、橋の模型がありました。
そこから更に進み、国道一号線に合流。その脇を歩いて行くと、やがて坂道に差し掛かります。「権太坂」というその坂は入口が結構急な坂で、急な部分を過ぎてからもまだ上り坂が続きます。上り切った所に境木地蔵尊という地蔵堂があり、そこが旧武蔵野国と相模国の境目だとか。
そこからは「品濃坂」という坂を下って行きます。
JR東戸塚駅付近を過ぎてまた道なりに歩き、JR戸塚駅そばの踏み切りを渡ります。駅の側で、且つ同じ方向の路線が複数あるこの踏み切りは、いわゆる「開かずの踏み切り」で、私は上下合わせて4本の電車を待つ事になりました。何でも、この開かずの踏み切り解消のために、立体交差工事が進行中だそうです。丁度この辺りが戸塚宿になります。
駅の近くには、清源院長林寺という寺があり、そこには徳川家康の妾だった「於万の方」の墓があるそうです。「於万の方」と言えば、つボイノリオが放送禁止歌「極付け!お万の方」という歌を出しています。最低な歌なので、ここで触れるのはよしましょう。

尚、その寺の下には、あのガチンコラーメン道の佐野実が暖簾分けした「支那そば屋」がありました。
そのまましばらく平坦な国道沿いの歩道を歩き続けていると、やがて上り坂になってきます。その坂の上で国道から分岐した道を歩きます。ここからは長い下りが続いて、日が暮れる頃には藤沢宿です。
ここには時宗の総本山の遊行寺があるのですが、生憎もう辺りは暗くなってきていたため、寄るのはやめておきました。踊念仏をやっていた宗派なので、何ぞ面白い物でも見られるかと思ったのですが。

時宗は、浄土宗の派生なので南無阿弥陀仏の念仏を唱える訳ですが、時宗ではその信・不信は問わず、念仏を唱えるという行為そのものが極楽往生に結び付くといったコンセプトのようです。これでは、コントやなんかで「なんまんだぶ」とか「なんまいだー」とかと唱えているのと大差無いような気もするのですが……
何はともあれ、もう暗くなってきたので、ここいらで泊まる所を確保しないといけません。
大きなビジネスホテルがあったのですが、生憎満室。飯無しの旅館に泊りました。
 
左:保土ヶ谷宿商店街。 右:帷子川の鯉の群れ。
 
左:旧帷子橋跡。 右:藤沢宿前の道に咲いていた彼岸花。


この2日目の途中から足の裏に違和感が発生しました。大きなマメが出来たのです。そして、その後とうとう潰れました。足に鈍痛が走り、そこからはその潰れたマメを庇うように歩いたため、足の筋肉に妙な張りが出来ました。
一晩泊まれば潰れたマメの様子も治まり、再び歩けるだろうと思っていたのですが、翌朝も全く痛みは引かず、今回の連休は泣く泣くここまでと致しました。次の連休にはこの藤沢スタートで歩こうと思っています。
東海道五十三次(2)歩行距離 : 21.6km(日本橋〜49.1km)+α。

                                駅員@面の皮と 違って弱き 足の皮

2009年9月28日(月)
駅日誌(1213) 「東海道五十三次(1)」

今年は9月にも5連休がありました。5月のゴールデンウィークに対して、そして、敬老の日を含むという意味合いもあり、シルバーウィークと言われました。そんな中、東海道五十三次歩きをやってみようと思い立ち、20日〜23日の4日を使って、どこまで歩けるものかとチャレンジ致しました。スタートは東京・日本橋、ゴールは京都・三条大橋です。

20日、電車で日本橋まで出向き、スタート。
しばらくは、平日出歩く所と代わり映えせず、街道を歩いているという感じは一切無し。
日本橋〜京橋〜銀座〜新橋。新橋のガードをくぐり、第一京浜道路を歩きます。
やがて、芝大神宮に到着。近いのに初めて来たのですが、ここは鳥居の上から東京タワーが見えるという、なかなか面白い神社でした。また、本殿を挟む狛犬の下には「め組」と書いてあります。歌舞伎にもなった「め組の喧嘩」(火消しVS力士の喧嘩で、負傷者99人)の舞台だそうです。
丁度この日は祭りのようで、神輿が出ていました。神輿を担いでいる人々を尻目に、通り沿いの喫茶店で休憩。
  
左:日本の道の起点、日本橋。
中:芝大神宮。屋根の上に見えているのが東京タワーです。
右:芝大神宮から出た神輿。


また第一京浜を只管歩きます。やがて田町駅前を通って品川に到着。品川駅を越えた辺りで、国道を離れて旧街道へ。江戸から最初の宿場、品川宿です。ここからはひなびた商店街を歩きます。連休だからなのか、それとも元々ひなびているのか、殆どの店が閉まっています。そろそろ食事にしたいのですが、これと言って東海道っぽい飯屋もなく、安い蕎麦で済ませました。

商店街が終り、再び国道に合流する辺りに、鈴ヶ森刑場跡があります。ここでは、1651年〜1871年の間に、10万〜20万人の罪人が処刑されたとか。街道沿いにあるのは、見せしめのためのようです。処刑の後に獄門とかで晒されていたのでしょうか。そこから国道に合流し、平和島競艇のそばを通って歩きます。
 
左:「紀州犬のプーと申します。しらない人にはなれないのでさわらないでね」。
右:鈴ヶ森刑場跡。

う……ちょっと腹が痛くなって来た。暑いので結構がばがばと冷たいものを飲みながら歩いていたせいでしょう。しばらく行くと、産業会館のような場所があったので、そこで厠を拝借。
何やら催し物があるようで、人が結構居ます。トイレを出て冷静になって見ると、どうもオタクっぽい人が多いような……いわゆるコミケというやつなのでしょうか? よく見ると入口にもそれっぽい看板が……そこで更にもう一歩冷静になって見ると、私は今年から眼鏡を掛けており、更に着替えを詰めたリュックも背負っています。ここから出て行く私の姿、これでは思いっ切り彼等のお仲間みたいではないか……
そそくさとその産業会館を後にし、更に国道沿いを西へ。やがて六郷川(現・多摩川)にかかる六郷橋を渡ります。ようやく神奈川県入りです。
そこからはまた旧街道に入ります。川崎宿に到達。鶴見川を越え、鶴見駅の先からは魚河岸どおりと呼ばれる旧道を通ります。通ったのが夕方近くだったので、何も無い通りなのですが、ここは、朝通ったら魚屋が開いているのだろうか……それとも連休でここも休み?
何事も無く魚河岸通りを抜けると、やがて麒麟麦酒の横浜工場が見えて来ます。この辺りの地名が生麦。この地名を狙ってここに工場を建てたのだろうか? 麒麟麦酒の敷地の隅に「生麦事件の碑」がありました。
  
左:街道沿いの居酒屋「たべるな」。食わずに只管飲めと? 私には無理です……
中:鶴見に宇宙人出現。
右:「生麦事件の跡」。薩摩藩大名行列を横切った英国人を藩士が殺傷。


ここからはまた国道を歩きます。だんだん日が傾き、辺りが暗くなってきました。もう秋ですね、18時にはもう暗くなってしまいました。何とかかんとか、神奈川宿(横浜)まで到達。

今回の旅は、一日でどれくらい歩けるか分からなかったため、宿の予約はしていません。だがしかし、横浜でわざわざ泊まるのもなあ……
一旦電車で引き揚げる事にしました。翌日はまた電車で横浜まで来てスタートです。この続き(21日分)は明日書こうと思います。
東海道五十三次(1)歩行距離 : 27.5km+α。

                             駅員@終わるまで 何日掛かる? 東海道

2009年9月28日(月)
駅日誌(1212) 「久々の更新」

余りに長い間、駅日誌を中断しておりました。
一度書かなくなると億劫になって書けなくなってしまうものです。この間、三ヶ月。
一端の文豪気取りに、しばしの断筆だったのだと言っておきましょう。
今日からはまた以前のように更新頻度を高めていきたい、と思っているのですが、果たして……
                            駅員@しばしの間 とて筆折って はや三月
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