明日の俺
(第1回Yahoo!文学賞応募作品)


「おはよう、昨日の俺」
 水曜日午前六時。急に枕もとで声がしたので目を開くと、カーテンの隙間から射す朝日を背に、一人の男が立っていた。慌てて跳ね起きてよく見ると、その顔はこの俺、荒木政洋の顔だった。そいつは、こちらに一歩近付き尚も「おはよう」と挨拶をした。俺はそれに合わせて一歩下がる。そいつは俺が跳ね飛ばした布団を直し、頭を掻きながら言った。
「そうか、現時点での今日の俺はお前だったな。おはよう、今日の俺。俺は明日の俺だ」
 意味が分からない。昨夜は遅くまで飲んでいたが、もう酒は抜けている筈だぞ。
「やっぱりそうか。分かる分かる、俺もそうだった。俺は、今から十八時間後のお前だ。そこの板が、タイムスリップの扉になっている」
 明日の俺を名乗るそいつは、天井板の一枚を指差した。
「何でそんな事が起きたのか、それは俺にも分からない。俺も明日の俺から教わっただけだ。お前から見て明後日の俺に、だな。その明後日の俺も『明日の俺に教わった』と言っていた。お前から見て明々後日の俺に、だ」
「はあ? お前、頭オカシイんじゃないか?」
「おいおい、それは鏡に向かって言っているのと同じだぞ。俺も最初はチンプンカンプンだった。しかし、起きてしまったものは仕方が無いだろ。受け入れろ」
「ワケわかんねえ。頭がオカシイのは俺自身か」
 俺はそいつを放っておいて布団に戻ろうとしたが、そいつは俺を制しながら続けた。
「待て、今日はそのまま会社を休むのか? 病欠か何かで休むんだな?良し、それで良い。今日はそのまま休め。変な気は起こさなくて良いぞ」
 そいつの思い通りになっている事が何だか癪だったので、布団から出てクローゼットに向かい、着替え始めた。それを眺めながらそいつは言う。
「ああ、やっぱりそうか。昨日俺がしたのと同じ行動パターンだ。ちょっと待て」
「何だよ。何しに来たんだ? 俺を休ませる為に来たのか?」
「察しが良いな。その通りだ。今日は出勤しない方が良い。昼前に大雨で停電。その後はてんで仕事にならないし、電車の復旧は夜遅くになる」
 俺はリモコンでテレビを点けた。朝の情報番組の天気予報が今日の天気を伝えている。
「東京ではところにより一時にわか雨が降るでしょう」
「・・・だとさ。にわか雨だ。一時的に降るだけ。傘を持って行けば十分だな」
 俺は着替え終り、洗面所に向かった。
「お前!いつもは天気予報なんかろくに信じてないだろう!」
 そいつは俺の後について来て尚も続ける。
「休んで、午前中に大工道具を買いに行け。夕方に恵理から、雨漏りがするから助けて欲しいという電話が入る。助けに行ってやれ。雨は続いているが、この辺りは夕方には辛うじて車で走れる状態になっている」
 口から歯磨き粉の泡を吹き出した。恋人の一大事と聞いては黙っていられない。
「本当か!? 分かった。今日は休む」
「分かってくれたか。気が変わりそうになっても断固として休むんだぞ」
「休む!」
「それと、夜十二時になったら天井の板を剥がし、俺がこれから入る穴に入れ。十八時間前、即ち朝六時のお前に会いに来る事が出来る。その上で、その日に行なうべき事をアドバイスするんだ。心配しなくてもこの穴は往復で使える。実は俺もこれから試すんだが、俺は一日で、明日の俺を信じるに至った。分かったな、ここだぞ?」
 そう言うと、そいつは天井の板を一枚外して穴の中に入り、板を元に戻した。
 しかし、休もうと思ったのも束の間、目覚し時計が鳴り、ふと現実に返った。カーテンを開くと窓の外は晴天。とても大雨の降りそうな空ではない。今し方明日の俺が消えた板を外してみたが、そこは一面剥き出しのコンクリートだった。夢か。夢に決まっている。休むとは言ったものの、馬鹿馬鹿しくなり、俺は結局傘を持って出掛けた。

 会社はいつも通り平穏だった。天気も穏やかである。きっと昨夜飲み過ぎたせいで変な夢を見たのだろう。俺は普段通りに仕事を始めた。
 午前十時頃、得意先からの電話を切って顔を上げると、女子社員が何人か窓際に集まっているのが見えた。気になったので近付いてみると、窓の外では強い雨が降っていた。
「天気予報で言っていたにわか雨だな、こりゃ」
「私、傘持ってきてないんですよ、困ったなあ」
「帰社時間でもまだ降ってたら、駅まで送ってあげるよ。すぐに上がると思うけどね」
「本当ですか? ありがとうございます」
 恋人は居ても、会社の女の子のポイントは上げておかないといけない。仕事をスムーズにこなす為には欠かせない潤滑剤なのだ。明日の俺とやらよ、何が「休め」だ。危うく騙される所だったぜ。俺は余裕の表情で空を眺めた。
 しかし、その余裕も長くは続かなかった。雨は一向に止まず、それどころかその勢いを強めていた。不意に蛍光灯が点滅し、消えた。事務所内にざわめきが起こる。窓から外を見ると、道を挟んだ向かい側のビル群はどれも真っ暗になっていた。停電だ。
 その後は、全て今朝言われた通りになった。夜七時頃、恵理からの電話もあったが、電車が止まっており、会社に缶詰状態だと答える事しか出来なかった。それに、帰ったところで大工道具は持っていないし、ホームセンターも閉まっている。
 ようやく電車が復旧して帰ったのは夜の十二時頃。恵理に電話をすると、隣のフリーターに助けてもらったとの事だった。普段フリーターを軽蔑していたくせに、「頼りになる人だった」「優しい人だった」とベタ褒めだった。腹が立った。
 疲れて、すぐにでも眠りに就きたい気分だったが、それ以上に後悔の念の方が大きかった。俺は、明日の俺が去り際に残した言葉を思い出し、天井の板を外してみた。
 そこには、メタリックの紫と緑がうねる様に代わる代わる現れて、まるでマジョーラカラーの様に光る穴があった。今朝はこんな物は無かった。俺はしばらくその光を見詰めた後、覚悟を決めて、恐る恐るだがその穴に入った。
 穴の先は、今朝の俺の部屋だった。俺の腕時計は十二時を回り日付が変わっているが、卓上の腕時計は今朝、即ち水曜日の朝六時を指していた。明日の俺が言った事は本当だったのだ。俺は、昨日の俺の枕もとに立ち、言った。
「おはよう、昨日の俺」
 ベッドの俺は、今朝の俺と全く同じリアクションをした。そして同様に俺の話を聞かなかった。今朝と全く同じ問答が、立場を変えて展開する。俺は何とか休む様に伝え、昨日の俺はそれに応じた。それを見届け、天井板の事を教えて帰った。
 帰ると穴は消えた。腕時計を見ると、穴に入った時から全く進んでいなかった。壁に掛けてある時計もそうである。穴に入ったのと全く同じ時間だった。そういうものらしい。
 床に就いて天井を見詰めていて、不覚にも今頃気付いてしまった。昨日の俺は、今朝の俺と全く同じ行動に出るのではないか、即ち、俺が帰った後、気が変わって結局出社してしまうのではないか、と。再び後悔の念が俺を襲う。これでは意味が無いじゃないか。

「おはよう、昨日の俺」
 木曜日午前六時。どうやらいつの間にか寝てしまった様だ。昨日と同じ様に、枕もとから明日の俺の声が聞こえる。俺は上半身を起こし、明日の俺に謝った。
「すまん。お前を信じていれば良かった」
「気にするな、俺は今機嫌が良い。お前のその後悔の念が、お前に俺の言葉を信じさせ、今日はアドバイスに従う。その結果、明日の俺はこの様にハッピーなんだ」
「なるほど。で、今日はどうすれば良い?」
「話が早いな。今日、同僚の井端に合コンに誘われる。それに是非参加しろ。その合コンには、それとは明かさないが専務の娘が参加している。あの次期社長の声高い、山本専務の娘だ。席順は、男性陣から見て左端。だから、お前はその向かい側に座れ」
「逆玉かよ! 上手く行くのか?」
「大丈夫、出席しさえすれば、お前の事を気に入る。後日デートの約束だ」
「しかし、恵理が」
「あんな女はもうやめろ。隣のフリーターに目移りしているぞ」
「確かに昨夜の電話にはムカ付いたが」
「だろ? 今日は心配要らないと思うが、頼むぞ。俺はそろそろ帰るが、今夜十二時には、忘れずに昨日の俺にこの事を伝えろよ」
 明日の俺は、昨日と同じ様に天井板を外して帰った。

 昼休みに、井端たちと連れ立って昼食に出掛けた。今朝、明日の俺が言った通り、その席で井端から合コンの話が出た。人数が一人足りないのだと言う。俺が参加したい旨を伝えると、井端は、意外そうにしていたが、二つ返事で入れて貰えた。
 開始は午後六時半。我々参加者四人は、早々に仕事を切り上げ、揃って会社を出た。
 居酒屋で待つ事約五分、女性陣が到着した。うちの関連会社の内勤女性だそうだ。挨拶もそこそこに各人が席に着いた。左端の席に座る俺の向かい側に座った女性は、育ちの良さそうな清楚な子で、他のイケイケな雰囲気の三人とは対照的だった。
 盛り上がる中、その子一人が大人しかったので、俺は極力話し掛ける様にした。すると徐々に打ち解け、右側が三対三で盛り上がる中、左側では一対一の会話が進んだ。
 その子は、山本うららという名だった。よくある苗字ではあるが、なるほど、専務と同じ苗字だ。会が終わる頃には、電話番号とメールアドレスを交換する事が出来た。俺の同僚三人は「今から反省会だ!」と騒いでいたが、丁重に御断りして帰る事にした。
 帰りの電車の中、携帯にうららからのメールが届いた。そのメールには、自分が専務の娘である事が書かれていた。色眼鏡で見られたくないから黙っていたが、それを知らなくても優しく接していた俺には教えても大丈夫だと思った、という事が書かれていた。
 しかし、その事実は明日の俺から既に聞いており、俺は知っていたのだ。何となく罪悪感を覚えた。明日の俺はハッピーだと言っていたが、今の俺は決してハッピーではない。俺は、肩書きとは関係無くうらら自身が魅力的だという主旨の返信をした。
 送信するとほぼ同時に、一通のメールを受信した。恵理からだった。隣のフリーターに昨日の御礼にと手作りの菓子を持って行ったら、美味しそうに食べていて嬉しかったとの事だった。こんな尻軽女には早く見切りを付けて良かったと思い、返信はしなかった。
 帰宅すると、午後十時頃だった。しばらく、うららとメールの遣り取りをした。その純粋な様子に俺は徐々に惹かれて行き、週末にデートの約束を取り付けた。尻軽女を切り捨てて、純粋なうららと出会えた事を前向きに捉えて、明日の俺は「ハッピー」と表現したのだろう。時計を見ると十二時だったので、天井板を外して穴に飛び込んだ。
「おはよう、昨日の俺」
 今朝の俺は、この俺をすんなりと受け入れ、話を聞いた。今朝俺も言った「しかし、恵理が」のくだりで、少し心が揺れたが、合コンに参加するよう伝えて帰った。
 素敵な女性と出会え、しかもそれは次期社長の声高い専務の娘である。これを幸せと言わずして何と言う。噛んで含める様に自らにそう言い聞かせ、眠りに就いた。

「おはよう、昨日の俺」
 金曜日午前六時。椅子に座る俺の目の前に、明日の俺が現れて挨拶した。今朝は、明日の俺が来る前に目が覚めていたので、こうして待っていたのである。
「ちょっと良いか? 一晩夢うつつで考えていたんだが、お前は本当にハッピーなのか?」
「それは愚問だな。自分自身に問うているのと同じだ。まあ、先ずは俺の話を聞け。今日は、恵理から、例のフリーターに誘われたという連絡が入る。それを許可しろ。このまま行けば、お前が悪者になるまでもなくあの尻軽女が自ら去って行く事になる」
「畜生、恵理の奴」
「奇しくも、恵理がフリーターと遊びに行くというのは土曜日だ。お前とうららとのデートも土曜日。好都合じゃないか。双方の為というものだ」
 明日の俺は、俺の肩を軽く叩いて顔を覗き込みながら二三度頷き、帰って行った。

 会社では、昨日一緒だった井端たち三人は非常に眠そうにしていた。昨夜は何時まで飲んでいたのだろうか。早く帰って良かったと思った。
 昼休みに携帯メールが届いた。恵理からかと思いきや、うららからだった。明日のデートを楽しみにしているという旨だった。俺も楽しみだという返信をした。
 恵理からのメールは、夕方六時頃に届いた。明日の俺が今朝言った通り、隣のフリーターに誘われたという内容だった。俺は快諾の返信をした。
 帰宅し、夜十二時を待って、今朝の俺に会いに行った。
「おはよう、昨日の俺」
 挨拶をすると、待ってましたとばかりに椅子に座っていた昨日の俺が立ち上がった。やはり「お前は本当にハッピーなのか?」という問いを投げ掛けて来た。俺自身が迷っているのに答えようが無い。明日の俺に今朝言われた事を真似て御茶を濁した。そして、恵理が隣のフリーターと遊びに行く事を承諾せよと伝えて、早々と帰った。
 床に就き、明日の計画を頭の中で練る。映画、食事、夜の海。ベタだが、まあこんな所か。映画はどれに、飯はどこに・・・そんな事を考えていたら、いつしか眠っていた。

 土曜日午前八時。目覚ましの音で目が覚めた。今朝は明日の俺が来なかった様だ。夜十二時を過ぎても帰っていなかったのだろうか。という事は、初デートで泊りという事か。参ったな、明日の俺は、来ずとも俺に無言のメッセージを残せたという事だ。
 待ち合わせは午後一時。俺は余裕を持って支度をしてから、ゆっくりと車を走らせ、待ち合わせ場所である駅に向かった。
 待ち合わせ五分前に駅に到着すると、既にうららが待っていた。
「ごめん、御待たせしちゃった?」
「いえ、私が早く来過ぎたんですよ」
 何と言う淑やかさ。恵理ではあり得なかった事だ。恵理は平気で遅刻しておいて、その上それを咎めると逆切れする女なのだ。
 予定通り映画を観終わり、食事について問うと、うららは俺に任せると言ってくれた。店に着くと、うららは今日観た映画の話を始めた。料理も美味しいと言った。御世辞かも知れないが、嬉しいものだ。我侭な恵理とは大違いだ。俺は車なので飲まなかったが、うららはワインをグラスで三杯程飲んでいた。頬を赤らめた顔は艶っぽかった。
 食後は、車を海に向けた。ほろ酔いのうららは少し多弁になっていた。
「私、地味なので普段は相手にされないのに、父の肩書きを知ると急にに媚びる様にすり寄ってくる方ばかりで、男性の方と一緒に居て楽しいと思った事は少なかったんです。でも、荒木さんは違いました。私そのものと接して下さった気がして、嬉しかったです」
 多弁になったと言っても、嫌な多弁ではない。恵理なら酒が入ると愚痴が始まる所だ。
「いいえ、素敵な人であれば、肩書きは関係無いですよ」
 これは本心である。確かに接触の切っ掛けは、明日の俺に教えられた肩書きからなのではあるが、喋ってみて、実際に素敵な人だと思ったのは紛れも無い真実だ。
 その時携帯が鳴った。恵理からの電話だ。俺はマナーモードにして放置する事にした。
「御電話、宜しいのですか?」
「ああ、良いんですよ。大丈夫です」
 しかし、携帯はマナーモードにした後でも何回もバイブしている。
「私は構いませんから、御出になって下さい」
 俺は「すいません」と謝りつつ電話に出た。
「助けて!」
 こちらが話し出す前に、電話から、恵理の尋常ではない叫び声が聞こえた。
「どうしたんだ!?今どこだ!?」
「あたしのへ・・・」
 電話が切れた。横ではうららが心配そうな顔でこちらを見ていた。「あたしの部屋」と言おうとした様に聞こえた。胸騒ぎがする。あのフリーターに強引に迫られているのか。
「すいません、ちょっと急用が入りました。駅まで送ります」
 うららを近くの駅まで送り、別れの挨拶を済ませると、俺は車をフル加速させた。
 
 思えば、うららと二人きりの時も常に恵理との比較が頭の中に出てきた。恵理の事が頭から消える事は無かった。恵理を切り捨てる事が出来ない自分に気が付いた。
 すまん、明日の俺、俺はお前を裏切る。俺はもう二度とあの穴には入らない。明日の俺を決めるのは、今ここに居るこの俺だ。アクセル全開で飛ばしながら、俺は呟いていた。
「さよなら、昨日の俺」
          (了)2005/11/25(応募日:2005/09/29)

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