おふくろの味


「ただいま」
 そう言って玄関を開けると、やさしい声が返ってくる。
「おかえり。ご飯にする? それともお風呂にする?」
「今日は暑かったから、風呂にするよ」
「じゃあ、その間にビールとご飯支度しておくわね」
「うん」
 俺はスーツから、ラフな部屋着に着替え、風呂場に向かった。風呂は既に沸いている。ぬる目が好きな俺にとって適温と言える熱さである。申し分無い。
 汗を流してさっぱりした俺は、首からタオルをかけて、ダイニングに向かった。テーブルには、よく冷えた瓶ビールと冷やして霜の付いたグラス、出来たての夕飯が用意してある。白飯、味噌汁、焼き魚、肉じゃが、冷奴、サラダ。バランスの良い食事である。申し分無い。

「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
 食卓に着いた俺は、先ずビールをグラスに注いだ。ビールに触れた霜が、非常に小さなミシミシという音を立てて溶けて行く。泡がこぼれるかこぼれないかという所まで注ぎ、一気に飲み干した。
 冷奴に醤油をかけ、箸で四分の一程に切り取って、口に放り込む。よく冷えた絹ごし豆腐が、とろける様に喉に流れ込む。絹ごし派の俺は木綿豆腐を受け付けないが、それをよく分かっている。
 再びビールを注ぎ、一口飲んで、焼き魚に手を着ける。ちょっと焦げてはいるが、皮はパリパリっとしており、中の肉はジューシー。口に運び、その熱さに少し慌てて、ビールを注ぎ込む。
 次に肉じゃがに手を伸ばす。醤油が濃い目で、料理店で出るものと比べると決して美味しくはないのだが、うちのお袋が作る肉じゃがと同じ味だ。疲れた体に、懐かしい記憶が蘇る。

「ごちそうさま。美味かったよ」
「うふふ、ありがと」
 ビールと飯に満足すると眠くなってきた。
 寝室に向かおうとすると、
「ちゃんと歯を磨いてね」
 まるで子供扱いである。そんな所までお袋に似ている。
 俺は歯を磨いてから床に就いた。寝室は冷房が効いて適温になっている。明日は出張で、朝五時起きだが、そのスケジュールは出張の予定が分かった日にちゃんと入力してあるので心配無い。

 この「Ubiquitous Room(ユビキタス・ルーム)」の機能は万全だ。スピーカーからは優しい女性の声が聞こえ、各種温度設定等が行き届いている。その上、「Off Chrono(オフ・クロノ)機能」搭載で、敢えて癖のある味付けをした「お袋の味」の再現まで出来るという充実ぶりである。申し分無い。
 ただ一つの欠点は、これが普及したせいで、益々非婚者が増え、少子化が急速に進んでいる事だ。俺もそうだが、わざわざ我侭な女の機嫌を伺ってまで嫁が欲しいという気が起きないのだ。
                       (了)2005/07/10


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