スメラギ・クマトシ氏の悲劇


 スメラギ・クマトシ氏は悩んでいた。いよいよ明日だ。下手をしたら死ぬかも、殺されるかも知れない。その事を考えると、寝床に入ってもまんじりとも出来なかった。横では妻のサユリが、クマトシの心配を他所に大きな寝息を立てている。

 元はと言えば、この女の所に婿養子に入っていなければこんな事にはならなかった筈だ。自分の運命を呪った。
 会社も会社だ。何故敢えて俺を選んだのか。何故俺にこの任務を与えたのか。俺でなければ何も問題は無かった筈だ。
 任務自体は何もそんなに危険を伴う物ではない。特に最近は色々な企業が行っている任務であり、極めて前向きな任務だと言える。しかし、それは普通の人間にとっての話である。俺にとっては別だ。取り掛かると同時に、激しい暴行を受けるかも知れない。それどころか過激な奴には殺されるかも知れない。
 ああ、眠れない。クマトシは、枕元に置いてある明日の飛行機のチケットに目を落とした。ビジネスクラスの国際線チケット。ああ、出来る事ならば破り捨てたい。
 同僚はこの海外出張を羨ましがった。出張は一週間。その内三日を視察に充て、後は任務は無い。色々旨い物を食べたり、遊んだり出来て羨ましいと言うのである。
 その通り、日程はスカスカで殆ど漫遊の様な出張なのだ。同行する者は皆浮き浮きしている。一人浮かない顔をしているクマトシに同行者は不思議がった。しかし、その理由を言うと同僚は合点が行った様だ。

 カーテンの隙間から見える空は白み始めていた。時計は4:30を指している。結局一睡も出来ないまま朝になってしまった。
 今朝は早いので、サユリには朝食を用意しなくて良いと言ってあるため、そのまま寝かしておく。見てみると、だらしなく半開きになった口からは、涎が垂れていた。今回の悩みの原因の一つが、自分にあるとは心にも思っていない事だろう。ま、確かにそうだ。サユリも自分の苗字を選べた訳ではない。憎きは、婿養子に入ると同時に出来た、この姓名の組合せだ。

 タクシーで空港に到着したクマトシは、中国行きの乗り場へと向かった。
 スメラギクマトシは思った。もしも「中さん」という苗字の人の所に婿養子に行けば、悩みどころか大歓迎された事だろう。どうして、「国万歳(クマトシ)」という名前で、「皇(スメラギ)」などという苗字になってしまったのか。どうして、会社はよりによってこんな名前の自分をこの任務に就かせたのか。「皇国万歳」。こんな名前では、何でもない中国出張が命懸けだ。
                       (了)2006/03/12


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