2008年3月度目次
 #845 「意識を変えないと」 体力、芸術、掃除の3つについて。
 #846 「せれぶれいと」 職場結婚を祝福しに。
 #847 「取材を受ける」 社内報の。
 #848 「年不相応?」 ふてぶてしいのか、老けているのか。
 #849 「メドベージェフ」 ロシア大統領交代。
 #850 「楢山節考は昔話ではないのかも知れない」 未来の話かも。
 #851 「意地っ張りたちに毒霧を」 武藤次期日銀総裁候補。
 #852 「雪板及び雪合戦」 雪合戦をするといつも私vs他になってしまう……
 #853 「銭ゲバ」 ジョージ秋山・作の漫画。
 #854 「食べ物を残すと目が潰れるのか」 そこに因果関係はないが……
 #855 「もしも好き」 下らない空想が好きなちょっと危ない野郎です。
 #856 「魅惑のAVマリアージュ」 桑田佳祐のCDとDVDのセット。
 #857 「サウイフモノニワタシハナリタイ」 なかなかなれませんが。
 #858 「春と修羅」 宮沢賢治の詩と同名のライブに。
 #859 「おごれる人も久しからず」 増長慢に陥った自分の愚かさ。
 #860 「空席」 次期日銀総裁。
 #861 「金盾」 その盾は不都合な情報を弾く。
 #862 「正邪は相対的」 私は悪魔の手先なのか。
 #863 「読んでもわけが分からないと思います」 私的懺悔。
 #864 「ダラダラ学習」 集中力が持ちません。
 #865 「このタコ!」 手に盛り上がって角質化した部分があります。
 #866 「鋭利な刃物でザクザクと」 ホラータッチ?
 #867 「これが……笑いの神の力なのか!」 片鱗を垣間見ました。
 #868 「パサールでござーる」 Pasar幕張。
 #869 「誰でも良かった」 土浦八人殺し&岡山ホーム突き落とし。
 #870 「櫻」 明日明後日が見頃でしょうか。
 #871 「紙一重」 罪人と私は紙一重ではないか。
 #872 「タイムリミット」 揮発油税暫定税率。
 #873 「臆病者vs御節介」 どちらが正しいのか?

2008年3月31日(月)
駅日誌(873) 「臆病者vs御節介」

今日電車に乗っていると、騒々しいガクランの集団が乗ってきました。春休みなのに、ガクランとは? よく見ると皆揃いのスポーツバッグを持っています。そうか、部活の帰りか……ん? 待てよ。部活の帰りならばジャージで良いのになあ。見てみると全体的にガタイの良い者が多い気がします。そうか、アメフトか? アメフトはあのプロテクターを身に着けるので、そのまま移動する事は無いという事か。
見ていると、大きな鞄を足元にドサドサと置いて、随分場所を取っています。
やがて、その集団は騒ぎ出しました。まあまあ、若い者が騒ぐのはしょうがない事、とそのまま放置していたのですが、どうも雰囲気がけった糞悪い。というのも、その中で一際小柄な者が、他の者によってたかってイジられて(虐められて?)いたからです。
今の時期だと三年生は卒業、このグループは二年生と一年生なのでしょう。という事は、この小柄な者は、一年生の中で最もイジられるキャラなわけです。あんまりだと思ったので、「その辺にしとけ」と言い出そうかと思いましたが……そのまま放置としました。その理由は以下の三つです。
@輪の外から見ているのと、輪の内側で見るのとでは、イメージが違うのかも知れない。もしかしたら、本人も然程嫌ではないのかも知れない。
A私は通りすがりなので、この場でしゃしゃり出ても、その場限りであり、ただ良い恰好をしただけで、その後の事は知らないという立場である。
B血気盛んなハイティーンの、それもアメフト部員大勢を前にして、怯んでいた。喧嘩になったら確実に負ける。
……と、こんな所です。@とAは言い訳がましく、Bは情けない事この上ないですね。この私が挙げた三つの放置理由。これって、虐めを見て見ぬ振りをするクラスメイトの心理と似ている気がします。まさに、臆病者の論理!! 私は小中学生時代からまるで成長していないではないか。私は、たまに偉そうに大言壮語を吐き散らすのですが、こういう場面で何も出来ないでは、そういった発言全てが薄っぺらく感じてきます。
それとも、口を出すのは御節介なのか? 何が正しかったのか……?
                                             駅員@チキン?

2008年3月30日(日)
駅日誌(872) 「タイムリミット」

明日が、平成19年(2007年)度の最終日。財務年度、学生年度等々、いわゆる年度末です。自らが勤める企業の決算が締まったり(3月本決算の企業は、ですが)、年度明けから新しく学校に進学する人もいる事でしょう。
しかし、年度末自体は、毎年来る事であり、取り立てて騒ぐ事ではありません。今年は、租税特別措置法の期限切れなのです。それが、新聞・ニュースで話題を呼んでいます。その租特法の構成要件である、各要素は何とか、5月末までは延長する手筈が整ったようです。最大の関心事である「揮発油税暫定税率」を除いて。争点のある部分を残して、争点が無い他の税率が道連れになってしまうのは回避されました。
しかし、残っているのは、民間に最も影響がある「ガソリン税」なのです。このまま決まらずに、4月になると、ガソリンが25円安くなります。
そりゃあ、有り難い事ではないか! と言いたい所ですが、このまま不成立に終わった場合、政府は衆議院で再議決(一旦参議院で通らなくても、衆議院で再議決すれば、通ります)し、また元に戻す方針です。この間、ガソリンスタンドや石油関連の商売で混乱が生じるのは間違いないでしょう。地球温暖化が叫ばれる昨今に、今がチャンスとばかりに買い求める人が出てきそうです。そう、石油危機の時のトイレットペーパーの如く。
どれくらいの混乱になるのか? 存外現代人はクールですから、然程大きな騒動にはならないかも知れませんがね。私はクールガイとは程遠いので、来週末にはガソリンを入れに行こうと思っています……
                                              駅員@小市民

2008年3月29日(土)
駅日誌(871) 「紙一重」

馬鹿と天才は紙一重であると申します。しかし、最近それ以上に思うのは、常人と狂人も紙一重という事。「あんな大人しい人が、まさか……」いや、大人しく平穏に暮らしていた人間が、突如狂気の世界に突っ走ってしまうのは、不思議な事ではないのかも知れません。そのキッカケは、芥川龍之介「羅生門」の終盤のような急性の変化の場合もあるかも知れませんが、多くの場合は慢性的、そして複合的なキッカケなのだと思います。

今日はぷらぷらと一人出掛けて、服を買ったり、本を買ったりして帰りました。その移動中の電車の中吊りに週刊誌の広告が貼ってありました。「土浦八人殺し」の事が書かれています。
被害者はたまたま駅で歩いていた人々であり、無差別殺人である以上、こういった凶悪事件の被害者と私は紙一重なのだと言えます。たまたま犯人のそばにいた人が死に、私はたまたまそこにいなかったから生きているのだとも言えます。しかし、私がそれ以上に恐ろしく感じるのは、私は被害者と紙一重であると同時に、犯人とも紙一重なのではないかという事です。
週刊誌・ワイドショーを始めとしたマスコミは、犯人がどういう人間なのかを暴露し、分析します。そこに現れる人物像は、果たして自分とは全く違う人間なのでしょうか? 彼らと私の違いは、たまたま心の闇がはじけるタイミングが来てしまった者と、来ていない者という違いに過ぎないのではないか? 私の内面にもキッカケさえあれば暴走する獣が棲んでいるのではないか?
おっと、「駅員、貴様はそんな凶悪な連中と紙一重なのか?」と思われた方、それは何も私に限った話ではないのです。今この日誌を読んでいる貴方の心にも闇はあるのだと、私は思っています。大小濃淡の差はあるかも知れません。
誰の心にも闇がある……しかし、先日の日誌にも書いた通り、私は凶悪犯に同情する気は毛頭ありません。罰の軽重とは関係なかろう、と思います。
寧ろ、特殊な者として区別する事に危なさを感じるのです。何だか、「彼と我々とは違うのだ」と言って、自分の属性を、自分が属したくない属性から切り離す事で、安心したがっているようにも見えます。この図式は、色々な差別を生むメカニズムに似ているような気がします。
                                    駅員@危険な思想でしょうか?

2008年3月28日(金)
駅日誌(870) 「櫻」

桜が咲いてきましたね。明日・明後日あたりが丁度見頃の休日となる事でしょう。今年は開花が早いですね。しかし、寂しい事に誰かと一緒に花見に行く予定も無いのですがね……

桜という言葉の語源には2種類の説があるそうです。一つは「サク・ラ」であり、「咲く」と複数形接尾語の「ら」です。もう一つは「サ・クラ」で、古代日本の言語で、「サ=神、クラ=座席(鞍)」といった意味だそうです。
というわけで、昔から日本人に馴染みの深い花なのです。日本人にここまで好まれたのは、桜の散り方に諸行無常が見えたからでしょう。形ある物いつかは滅びる、万物流転の価値観ですね。
また、梶井基次郎の小説によると、綺麗に咲く桜の木の下には、人の死体が埋めてあるそうです。死体が埋めてある……と言えば、紫陽花の花には赤と青がありますが、あの色を決定付けるのは何かというと、土壌が酸性かアルカリ性かという点です。丁度リトマス試験紙のようになっているのです。で、これまで毎年青が咲いていたのに、ある年に急に赤が咲いたとします。これは酸性雨の影響かも知れませんが、或いは紫陽花の下に死体が埋められて土壌が酸性化したという可能性もあります(推理小説からの受け売りですが)。
こんな雑学はさておき、帰り道に夜桜の写真を撮りました。それを見上げながら、私という花はいつ咲くのだろうか……とちょっとセンチメンタルです。
光源は街灯です。

駅員@もう根腐れしてたりして!

2008年3月27日(木)
駅日誌(869) 「誰でも良かった」

どうも、日本人の脳味噌がおかしくなっています。
「土浦八人殺し」に続き、岡山では18歳の少年がプラットフォームで人を電車の来た線路に突き落とすという事件が起きました。この二人の罪人、ともに「誰でも良かった」などとほざいています。誰でも良かっただと? じゃあ、死んだ人は殺される謂れも無いのに、ただただ貴様等のストレス解消のためだけに死んだという事か!? これでは成仏出来まいて! 怨霊となってしまう事でしょう。

さて、この通り事件自体が凄惨なものなのですが、私が最も危惧するのは、次の二つなのです。


@二人とも、心神耗弱の様子なので、責任能力無しなどという人道に悖る判決が下されてしまいそうだという事。世の中には責任能力を裁きの要件にする事を人権保護だなどとほざく偽善者がおりますが、責任能力が無い=人間では無い=動物扱いでは果たしてそれは人権と呼べるのだろうか? と私は思うのです。
厳罰化は必ずしも犯罪抑止力たりえないというのが、世の中で言われている事なのですが、しかし、どうにも生き残っている大多数の人間にとって、納得出来るものではないのではないかと思うのです。


A犯罪にはブームが存在するので、これを真似て愚行を犯すクズ野郎が出て来るという事。上記2件の犯人がどうなのかは分かりませんが、キ○ガイの振りをすれば水に流されると考える下衆野郎がいても全く不思議ではありません。そして、このブームの背景にあるのは、マスコミの功罪だと思います。意図せずも、「ああ、こうしたら捕まるのか」「でも、こうしたら罪を逃れられるのか」等、犯罪マニュアル化してしまうのです。

だから、私は度々思います。森鴎外の「山椒太夫」のラスト、厨子王が山椒太夫を埋めて首だけ出し、その息子に切れ味の鈍い竹の鋸でその首を挽かせたように、ただの死よりも苦しい罰を与えて罪を償わせた方が良いのではないか、と。
現在主流の教育刑論に反した、バリバリの応報刑論ですが、結局は皆が納得するためにはこれしかないのではないか、と思うのです。何故、罪人の人権ばかり保護されてしまうのか? 私はそこがどうもシックリ来ません。
           駅員@ま、現世で刑が甘くなっても地獄で責め苦が待っているのですが

2008年3月26日(水)
駅日誌(868) 「パサールでござーる」

うーん、古い!! 1991年に放映されたNECのキャンペーンCM「バザールでござーる」を元にしたタイトルです。当時人気を博した猿のキャラクターが中心となったCMです。
1991年という事は、今から17年前……今の高校生より若い世代は基本的には知らないわけです。私も年を取ったものです……しかし、本題の「パサールでござーる」は、新しい話題です。

「パサール幕張」とは、京葉道路の幕張パーキングエリア(以下PA)にこの3月新たに登場した商業施設です。
昨今都心で出来た複合商業施設や所謂「駅中」商業施設を手本に、そんな店をPAに出そうという試みです。パサール(Pasar)という名は、「PA+SA+Reluxation」という組み合わせで、且つ、インドネシア語で「市場」、スペイン語で「立ち寄る」という意味だそうです。高速道路通過のついでにPAに積極的に立ち寄って買物をしてもらおうという試みですね。まさしく自動車での「駅中」と言えます。
「えー? でも、わざわざ高速に乗って入るのでは、結局は元々その高速を通っていた人しか利用しないではないか」と思ってしまいますが、京葉道路は通常の高速道路と違い入口と出口の両方に料金所があるわけではありません。料金所ポイントさえ通らなければ、只で通れる道なのです。そして、この幕張PAの前と後ろにある出入り口はいずれも料金所はありませんので、近場の人は車で普通に行ける所にあります。
さて、今日は仕事の関係で我が愛車を転がして、後輩と一緒にそこに行ったので、色々見てきました。特徴的なのは、綺麗で解放感のある設計の建物ですね。綺麗なのは新しいからという部分もあるのですが、吹き抜けのような屋根になっていて、内装は白と木目で統一されていて、明るい印象です。
その施設内容は、地産地消型のビュッフェ、コーヒーショップ、コンビニ、フードコート、ミニデパ地下のような食品物販店で構成されています。PAですから、規模はそう大きくはありませんが、普段この近辺を通るのなら、積極的に足を運んでも良いと思わせるだけの魅力はあると思います。私が特に面白いと思ったのは、日本初上陸のジェラート屋と、その背面にある和風アイスを売る店。いずれも八芒星型の平たいワッフルコーンにアイスを盛っていました。この形のアイスって、最近結構流行りの形態なのだと思います。
トイレも綺麗で広々としています。特に女子トイレが高機能で、何と着替えが出来そうなスペースまであるそうです。おっと! 私が女子トイレに潜入したわけではないですよ! まだそこまでは堕ちていません! 前述の後輩(女性)曰くです。
また、愛煙家として嬉しいのは屋根のある広い喫煙所があるという事。普通のSAやPAでは、灰皿が外にしかなかったり、屋内でも非常に狭かったりするのですが、ここのは良かったです。ガラス張りで分煙が徹底しています。私とて、なるべくなら子供がちょろちょろしている所に煙が届くような吸い方はしたくありませんからね。
                                  駅員@でも思ったより空いてました

2008年3月25日(火)
駅日誌(867) 「これが……笑いの神の力なのか!」

よくお笑い番組やバラエティ番組を見ていると、「今、こいつには笑いの神が降りてきている」なんてコメントが出て来ますが、「そんなもん、ほんまに居るんかいな?」と私は思っていました。が、しかし、どうやら居る様です。その姿が少しだけ見えました。と言っても、残念ながら、私に降りてきたわけではありません。会社の同僚に降りて来た瞬間を目撃したのです。

その同僚、私に負けず劣らずの「いじられキャラ」なのですが、その男が居酒屋でふと言い出したのです。「以前、一個だけ辛い饅頭が入っている饅頭詰め合わせを皆で分けた時、本当は他人に食わせて面白がろうと思っていた辛い饅頭が自分にヒットしてしまった」という話です。聞いてみれば、以前にも聞いた事がある話です。ああ、あの時の話かと思い出したわけです。
その話が出た後に、その居酒屋にある「一個だけ辛い物が入っているコロッケ盛り合わせ」が注文され、我々のテーブルに運ばれてきました。そして、それをその場に居た五人で一個ずつ口に運んだわけです……
勘の良い方は、もう予想が付いている事でしょう。なんと、その以前饅頭をヒットさせた男に、再びヒットしたのです。
そのむせ方がまた大きなアクションでした。この神に操られているかのような筋道……これこそが、アダム=スミスが説いた「神の見えざる手」なのではないのか!! いや、「神の見えざる手」は経済用語なのですが、これは「笑いの神の見えざる手」だと思ったのです。世の中には努力しても手に入らない天賦の才というものがあるものですね。
……いや、待てよ? 最初に出た饅頭の話はもしかして前振りなのか? だとしたら、偶然ではなく、これは必然という事になります。だとしたら、「笑いの神」よりも尚恐ろしい狡猾な男だという事になります。天に与えられた結果なのか? 自ら手繰り寄せた結果なのか? 果たして真相は? それこそ「神のみぞ知る」です。
                                              駅員@侮り難し

2008年3月24日(月)
駅日誌(866) 「鋭利な刃物でザクザクと」

鋭利な刃物でザクザクと削られました! 昨日の日誌に書いたタコの事です。正確にはイボだそうです。19:00迄やっている皮膚科に、ギリギリ間に合うくらいに会社を出て、通院開始です。
以前もこのイボが気になった事があったのですが、その時は液体窒素のような物を押し当て、根性焼の如くやっていた気がします。その時、大きな塊が除去が出来たからといって油断したのがいけませんでした。再び肥大し、また転移しだしたので、今回の通院となったのです。
今回は根絶を狙っていますので、1週間毎くらい通う予定です。幸い、土曜日も開いているので、平日が厳しかった週は土曜日に行こうと思います。
いやしかし、あのメスみたいな刃物の、切れ味の良い事。まるで、彫刻等でゴム版を彫るかのように削られました。最初に出来たイボであり、且つ最大のものは出血を伴いましたが、これから徐々に削って貰う所存です。自分の皮膚が刃物でガリガリ削られる様は、結構ゾクゾクしました。

さて、ゾクゾクついでに、昨日歩いていて見付けた物を。その名も「電撃殺虫器」。凄い名前でしょう?

なんて事はない、ただの電灯であり、正の走行性のある羽虫をおびき寄せて、その電力で殺すという機械です。よく青い蛍光灯みたいな物がありますが、あれの事です。え? 虫が死ぬくらいではゾクゾクしない? そんなネーミングではゾクゾクしない? 真のゾクゾクポイントは他にあります。即ち、この機械の殺虫力の要は、羽虫の正の走行性を利用しておびき寄せるという点にあります。
では、たまたま突然変異で光に向かわない虫がいたら? 本来ならば生存競争で負ける立場にあった虫でしょう。しかし、この電撃殺虫器に対しては、その個体は強い耐性を持つとも言えます。という事は、正の走行性を持った虫は殺虫機で死に、正の走行性の無い虫が生き残ります。するとどうなるか? そういう個体ばかりが繁殖することになります。光に集まらず、ただただ闇を徘徊する虫ばかりになるのです。明るい所から虫が消されている一方、人の目の届かない闇に虫が集結しているのかも知れないという事です。ゾクゾクしてきませんか?
                                      駅員@今回はホラータッチ?

2008年3月23日(日)
駅日誌(865) 「このタコ!」

昼間チョコチョコと出掛けた後、帰ってやりかけの通信教育(昨日の日誌参照)をして、何とかやり終えました。
昼間の外出の目的は皮膚科です。何ぞ? 駅員は皮膚病にでも罹っているのか? 罹っています。しかも、これは十代の頃から継続して発症しています。手に数箇所、盛り上がって角質化した部分があるのです。タコのような物なのですが、タコが出来る覚えのない場所に出来ています。しかも、それが手の中で転移しているのです。手以外には転移していないので、この手に固有の病気なのではないかと思います。
最初は一個だけでした。その時気になって皮膚科に行くと、液体窒素のような物で壊死させるという治療を受けました。その時にボロボロと取れたのですが、再発し、しかも転移を続けているのです。これはそろそろ根絶しないと大変な事になり兼ねないと思い、出掛けたのですが。
一度治そうという気になってしまうと、なかなか引っ込みが付きません。明日以降、平日遅くまたは土日にやっている皮膚科を探しておこうと思います。

このタコのような物、私が十代の頃から出来始めたという事は前述の通りですが、たまに妙な妄想を抱いてしまいます。
十代の頃と言えば、私が色々と屈折した考えを持ち始めた時期でもあります。心が屈折して出来たシコリが手先に表れているのではないか!? などと思ってしまいます。社会人になってから、心の屈折は加速している気がします。それが、タコの転移と重なっても見えます。
或いは、こんな見方も出来ます。「人面瘡」という物があります。平たく言うと、怨念を持って死んだ魂が、怨みを持った相手の体に顔のような出来物として現れるという現象です。もしかしたら、私が故意または過失で傷付けたり、辱めたりした人の怨念が私の手にタコとして現れているのかも知れません。
もし、このいずれかだったら、医学的な治療は全く意味が無い事になります……いやいやいやいやいや、妄想が過ぎますね。
                                      駅員@痛みはないのですが

2008年3月22日(土)
駅日誌(864) 「ダラダラ学習」

私の勤務先の取り組みで、仕事に関する通信教育を選択肢として提示し、それを受講し修了した者は、費用は全て会社持ちという制度があります。
半年に一本のペースでありまして、折角なので私は毎回何らかの物を受講するようにしております(それが血となり肉となっているかどうかの実感はありませんが)。

で、この2007年度下半期にも受講しておるわけですが、そのレポート提出締め切りは、今月末なのです。
確か、教材は10月頃に届いた記憶があります。その後引越しで、一体どこへ? 引越しの時に見た記憶があるので、誤って捨てたという事はあり得ません。あった! 殆ど真っサラの状態で埃を被った教材を発見しました。こんな感じで教材を見付けたのが、一昨日20日の話です。
3冊の教材それぞれにレポートがあり、第1冊分をその日の内に何とか書き、今日は第2冊に取り掛かっております。平日に入ると終えられなくなる惧れがあるので、何とか今日明日で第2第3を終えてしまおうと思っています。だって、修了しないと、受講費用は個人負担なのです。
しかし、なかなか進捗しません。そりゃあ洗濯物だとか何だとか休日の間にしないといけない事もありますが、そんな事は些末な事。それ以前に集中力が持ちません。ちょっと疲れたなあ……とばかりに煙草を吸って、ふと本棚の漫画が読みたくなってきます。そして、しばらく読み耽り、いそいそとテキストに戻ります。こんな事で大丈夫なのだろうか?

昔はこうではなかったのです。小中学生時代は、例えば、夏休みには、ただ問題を解くだけのワークブック形式の宿題は7月中に終えていたりとか、結構嫌な事、面倒な事を先送りしない性格だったのに……いつからこんなダラダラした人間になってしまったのだろう。
                                駅員@日記による中断後、復帰します

2008年3月21日(金)
駅日誌(863) 「読んでもわけが分からないと思います」

当日誌には、いつもその時一番書きたい事、吐き出したい事を書く事にしています。今日吐き出したい事は非常に私的な懺悔なので、今回は読んでもわけが分からない日記だと思う事を最初に書いておきます。

私はどうも、人の心の機微が読めない人間のようです。軽率な言動で人を傷つけている事が多々あるのだと思います。いや、まだそれと気付いていない事の方が多いのかも知れません。それでのうのうと暮らしているだけなのかも知れません。体を叩けば、軽率さから出た埃が濛々と舞う事になるのでしょう。
川で溺れている人を助けようとして、縄を差し出すような素振りを見せて、その縄で溺れている人を打ち据えているのかも知れません。或いは、縄を差し出しておいて、自分には荷が重いと思うと、パッと手を放してしまっているのかも知れません。或いは、重い発言を軽く履き違えて、軽はずみな事をしでかしているのかも知れません。
軽率さは、悪を為しておいてそれが悪だと気付いていない分、敢然と悪を為す者よりも遥かに質の悪い最低の部類の人間なのだと思います。今私が考えている事が杞憂でなければ、私はとんでもない事をした事になります。
先日の天狗の鼻折れと言い、最近、自分が如何に下らない存在なのかを思い知らされてばかりです。

                                                駅員@懺悔

2008年3月20日(木)
駅日誌(862) 「正邪は相対的」

今日は休みなので、のんびり眠っていました。ふと、目が覚めると昨晩から降り続く雨の音。まだ降っているのか。雨なので引き篭もりを決めた私はそのまま二度寝しました。
それから何時間か経った頃、呼び鈴が鳴りました。
何ぞ? インターフォンに出ると、宗教の勧誘の様子。聖書が云々……ああ、きっとエホバの証人の人だろうな。二度寝で頭がぼんやりして、且つ眠気がまだあった私は、それをさっさとあしらって、三度寝。
はっ!……あーあ、眠り過ぎちゃった。勿体無い。

それと同時に、ちょっと宗教の勧誘を簡単にあしらった事にも勿体無さを感じてしまいました。何が勿体無いのか? 私は常日頃、「宗教は玩具である」という宗教観を持っていますので、その意見を何らかの宗教に傾倒している人にぶつけてみたいと思っているのです。折角の議論のチャンスだったのに。
それに、あわ良くば、私の考え方に共鳴させ、雨の降る中一軒一軒宗教の勧誘をするなどという義務から、その人を解放してやれたかも知れません。
もしかしたら、そうやって唆すような事を言うと、エデンの園で林檎を食べさせた蛇=サタンと同様の行いと見なされ、悪魔扱いされてしまうかも知れませんが。ていうか、午後までだらだらと眠っているようでは、基督教七大罪の一つ「怠惰」を既に犯しているわけですが。
しかし、世界の様々な宗教を見れば、異教の神は邪神または悪魔扱い(基督教は主にこの方針です)か、取り込まれて下位の神とされる(仏教は主にこの方針)かしているのを見れば分かる通り、正邪は相対的なものに過ぎません。江戸幕府が基督教を邪教扱いしたのも、基督教やユダヤ教が他の神を悪魔扱いしてきたのも、大差の無い事だと私は考えています。
                                          駅員@悪魔の手先?

2008年3月19日(水)
駅日誌(861) 「金盾」

Buddhistic Demonstration――仏教徒の示威運動が起きています。昨年は、ミャンマーで軍政反対のデモが起きました。今年はチベット及び中国で起きています。最近は仏教徒がエネルギッシュですね。仏教の時代です……などと悠長な事を言っている場合ではありませんね。
今回のデモの内容は「独立運動」。チベットは清朝時代より、中国の支配下にありましたが、清のが滅びた時に、独立国家になりました。しかし、1950年に中国人民解放軍が侵攻、再び中国の支配下となり、中華人民共和国チベット自治区となっており、国家ではなく中国の一地域となっています。尚、チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ及びチベットの中枢を担う人々はインドに亡命し、そちらで亡命政府を樹立しています。
これまでに何度か独立運動デモは発生しており、その度に中国に制圧されています。今回もそれと軌を一にしています。しかし、今回は、近年中国が高度成長&国際化している事、今年は北京五輪を控えている事がありますので、大きく話題に上っています。
ダライ・ラマ14世は、「中国による“侵略”は文化的虐殺である」と主張し、中国当局の温家宝首相は「この騒動はダライ・ラマが指示した“破壊活動”だ」と主張しています。まあ、平たく言えば、双方「あっちが悪い」と言っているわけです。
しかし、中国は情報統制が厳しく、情報は断片的にした伝わって来ません。テレビやラジオは勿論、現在の情報入手の最もポピュラーな手段インターネットに於いても「金盾」というシステムが情報をブロックしているそうです。因みに、「ダライ・ラマ(実際は勿論その中国語表記ですが)」は金盾のNGワードに引っ掛かります。
そんなわけで、デモが沈静化したのは本当なのか? どの程度なのか? それもよく分かりません。

さて、前述の「金盾」はインターネットを検閲するシステムなのですが、非常に恐ろしいものですね。一体どういう仕組で膨大な量のデータを捌いているかは分かりませんが、例えば、私が中国人だったとして、中国国内で「人民解放軍と言いながら、これでは人民抑圧軍ではないか!」と掲示板に書いたとしましょう。すると、それが公安関係者にチェックされマークされる可能性があるわけですよね? もっと過激な事を書いたら、しょっ引かれたりもするのかも知れません。私は中国人は別段嫌いではない(そりゃ、反日の人は嫌いですよ)のですが、中国政府はどうも好きではありません。
……と、こんな事を書いて、もし中国語翻訳サイトで当駅が翻訳されていたら、中国国内では有害サイト扱いになっちゃうのでしょうね。
                                駅員@いや、とっくになっているのかも

2008年3月18日(火)
駅日誌(860) 「空席」

手違いで飛行機のチケットを取り損ねた男は、空港のロビーで空席を待っていた。「どうなってしまうんだろう? 俺の帰国は」
酔っ払った男が吊革にだらしなくぶら下がって眠っている。車内に空席は無い。さっきからしきりに頭が揺れている。その紙一重の所に手摺の鉄パイプが迫る。「どうなってしまうんだろう? この先のカーブでこの酔払いの頭は」
この人を薦めても拒否されて、その人を薦めても拒否されて、あの人を薦めても拒否される。どの人ならば良いのか? 「どうなってしまうんだろう? 日銀総裁が空席になったら」
空席に絡めて三つのシチュエーションを書いてみました。一つ目と二つ目は、フィクションですが、三つ目はノンフィクションです。

武藤氏が否認されて、次の候補である田波氏も民主党は否認の方向です。
どうもねじれ国会は具合が宜しくありませんね。何も話が進まない。否、これは民主党に「大人になれ」と言っているわけではありません。自民党民主党他も含めて、一体どれだけの人間が実際に国を良くしようと思っているのでしょう? という話です。
政府があくまで財務省(または大蔵省)出身者を推すのは、政官の馴れ合いなのでしょうか? 取引なのでしょうか? そんな勘繰りも出て来ます。
一方で、民主党の主張が正しいとも思えないのです。政府も民主党も党利党略ばかりを見ている気がします。以前にも同じ事を書きましたが、元々好きな政治家であった小沢一郎も、今では政治をゲームだと思っているようにしか見えません。
「衆愚政治」という言葉がありますが、民主政が滅びてしまうのは、そう遠くないのかも知れません。ギリシャの哲学者プラトンは、真に優れた哲人による独裁は、民主政よりも優れているというような意見を言っています。
しかし、為政の才があり、且つ108つの煩悩が無い、そんな聖人君子になる事は、人間には土台無理な話だと私は思っています。それに、そんな人間が仮に現れても一人では一代限りです。継続的に現れないと、忽ち崩壊してしまいます。
もしも、多くの人が納得出来、それでいて継続的に成立する統治形態を考え出したら、それは時代の変わり目になるのかも知れません。近現代民主主義時代の終焉と、新しい時代の幕開けとなる事でしょう。しかし、それが思い付けば世話はありませんね。
                        駅員@それを思い付けば、貴方は新時代の王です

2008年3月17日(月)
駅日誌(859) 「おごれる人も久しからず」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。 〜「平家物語」より〜

この、あまりにも有名な平家物語の冒頭は、文字通り、諸行無常・盛者必衰を語っています。今回は、特にその三行目「おごれる人も久しからず」が身に沁みております。
私も仕事に慣れてきて、先輩後輩問わず会社で頼られたりする事も増えてきました。これ自体は非常に喜ばしい事です。私は「被依存依存症」というか、人に頼られる事に多少快感を覚えます。しかし、これは同時に大きな副作用をも生み出します。即ち、調子に乗ってしまう、天狗になってしまうという事です。私は丁度、鼻が伸びている時期にありました。そして、それがポッキリ折れてしまったわけです。

今日は、先日の出張で執り行われた式典の反省会がありました。
今回は、大いに反省する所があります。そりゃ、小さなミスも沢山ありますが、それはまあ良い。私自身、致命的だと思った事が一つありました。我ながら、何故あんなミスを犯してしまったのか。自分でも「こんな事にも気が付かないなんて、クビや!」と思うようなミスです。私は「自分は物知りで、頭が切れる」という増長慢に陥っていたのです。何故そこまで現象が目に映っていて、何もしなかったのか? 何も出来なかったのか?
流石にその詳細迄は、ここで語るわけにはいきませんが、今私は鼻が折れております。
                                            駅員@悔い改めよ

2008年3月16日(日)
駅日誌(858) 「春と修羅」

昨日の日誌のタイトル、「サウイフモノニワタシハナリタイ」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の末尾なのですが、今日も宮沢賢治繋がりになってしまいました。
「春と修羅」は、宮沢賢治の詩及び詩集のタイトルですね。
この詩には副題として、「Mental Sketch Modified」と付けてあります。「心の素描・改」といったところでしょうか。その心のありようを、言葉そのものと同時に、各行が上下にうねっているという表記で表してもいます。

さて、今日は宮沢賢治の話題ではなく、ライブに行って来たという話です。昨日迄の連続出張による疲れを癒すのもそこそこに、夕方から渋谷を目指しました。私は渋谷という街があまり好きではない(歩いている人々がどうも私とは相容れない人が多く見えるという偏見を元に)ので、滅多に来る事はないので、久し振りです。目的地はShibuya-O。「人間椅子」という私の好きなバンドのライブツアー「春と修羅」に行きました。

人間椅子というバンド名は、江戸川乱歩の小説から、そしてツアー名は前述の宮沢賢治の詩から取っています。
文学バンド……元イカ天バンドであり、イカ天ではそう呼ばれていました。安直なカテゴライズという悪弊ですが。
しかし、かれこれ20年程続いているのは大したものだと思います。「いつも、これが最後のライブかも知れないというつもりでやっています」という心配なコメントがありましたが、今後も機会があれば行こうと思います。
今回は、和嶋慎司(G/Vo)がジミー・ペイジばりの12弦+6弦のダブルネックギターも使いましたし、
いつもはアンコールは二回なのですが、今回は三回目のアンコールもあり、また三回目のアンコールでは鈴木研一(B/Vo)が顔の分のメイクを落としちゃってからの演奏まで見られました(現在はスキンヘッドに白塗りなのです)。
                             駅員@耳がまだちょっとキーンとしています

2008年3月15日(土)
駅日誌(857) 「サウイフモノニワタシハナリタイ」

木曜日夕方〜金曜日〜今日の昼迄、関西に出張しておりました。木曜日はあくまで前泊ですが、2連泊の出張となりました。言わば式典のようなもので、私の主な役割は、当社製品の紹介です。
大勢の人の前でプロジェクターで映像を映して喋ります。何度やっても緊張します。喉がカラカラになります。あがってしまうと言いたい事が色々抜けてしまうので、原稿を作っておいてそれを読んでいるという事と、時間が押していたという事がありましたので、きっと随分早口で喋っていたと思います。
もっと余裕を持って喋れたら良いのですが、余裕を持って喋ると、それはそれで社内の上司他の御気に召さないようで、また厄介です。そうなのです、「敵は身内にあり」とも思えるのです。いや、これはきっと私の性格のせいもあるのだと思います。「会社員に向いていないのかなあ……? うーん、向いてない!
「裸の王様」の話に出て来る「王様は何で服を着ていないの?」と言った子供みたいに、正しいと思った事を正しく言う心意気を持った人間、サウイフモノニワタシハナリタイ。

さて、この出張の間に、為替市場で大きな動きがありました。ホテルの受付の横には、各新聞紙がおいてあったのですが、スポーツ新聞以外の全てが同じ一面記事でした。「円一時99円台」。1ドル=99円、そして日本時間の今日はニューヨーク為替市場で一時98円台にもなったそうです。12年ぶりの円高ドル安。ドルの価値が落ちて来ています。私の勤め先は、ドメスティックな産業なので大きな影響は受けませんが、輸出が主たる日本の有名企業の数々には多大な影響が生じます。
人間はエコノミックアニマルなので、世界中で欲が蠢き、一喜一憂をするわけです。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の末尾で「サウイフモノニワタシハナリタイ」と言っている内容には「慾ハナク」だの「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」だの「アラユルコトヲ、ジブンヲカンジョウニ入レズニ」だのとあります。皆がそういう生き方をして、惨めさや嫉妬といった負の感情が一切起こらなければ良いのですがね。私は嫉妬深い人間なので、どう考えても無理です……
                       駅員@しかし、一日に4合だったら結構な量だよなあ

2008年3月12日(水)
駅日誌(856) 「魅惑のAVマリアージュ」

このタイトルだと、まるで私がAVばかり観ている男みたいではないか!!
これは今日発売だった桑田佳祐のCDとDVDのセットのタイトルです。
勿論初回限定版を。
AVとは、Adult Videoではなく、Audio&Visualの略なのです。まあ、引っ掛けているのは間違いないのですが(そう言えば、東京事変のアルバム「ADULT」のビデオクリップ集は、「ADULT VIDEO」というタイトルでした……どうも私の好む音楽にはちょいエロ系も入っているようです)。

CDには、2007年に桑田佳祐が出した3枚のシングルとそのカップリング曲の計9曲+原由子ソロ+桑田新曲という構成です。一方、DVDは年越しライブ等の映像です。AudioとVisualそれぞれのディスクのセットというのをマリアージュ(結婚)と表現したようですね。桑田佳祐2007年の音楽活動の集大成です。CDの方は帰って直ぐBGMとして聴いたのですが、DVDはまだ観ていません。
桑田佳祐の得意技の一つは失恋の歌……しかし、近年の曲は嘗てのそれとはちょっと趣が異なる気がします。即ち、希望が残る歌の比率が高まっている気がするのです。また、近年はラブソング以外での切ない歌が増えましたね。とは言え、殆どが聴いた事のある曲であり、想定通りではあります。
私の中で想定外だったのは、ライナーノーツに書かれている事、桑田佳祐のぶっちゃけトークです。ある意味、本来の商品であるCDとDVDよりも印象深いかも知れません(DVDの方はまだ観ていないのですが……)。
さて、まだ観ていないDVDの方はこの週末に観ようと思っています。明日の夜、明後日、明々後日朝まで泊まりで大阪へ出張なのです……今日夜更かしして観るのも手ですが、そのしんどい出張後の楽しみに取っておきましょう。
今回の出張では、大勢の人の前で喋らないといけません。こういうのは何回やっても緊張します。元来私は非常に臆病者なのでドキドキです。しかし、「苦手な事でもしないといけない」という環境にないと人は成長しませんので、小便ちびりそうになりながらやらざるを得ないのです。否、私も桑田佳祐に倣い、「俺という人間」を演じてみようか。
                              駅員@明日からしばらく日記は休みます

2008年3月11日(火)
駅日誌(855) 「もしも好き」

私は、外を歩いていて知人と擦れ違っても気付かない事が多く、後で「お前、いついつにどこどこを歩いていただろう?」なんて言われる事が多いです。
気付いたのなら声を掛けてくれれば良いのに……私は結構寂しん坊なので、声を掛けてくれると喜びます。しかし、そう言うと大概次のいずれかを返されます。「何か考え事をしていそうな様子だったから」または「歩くのが速いから」。
確かに、私は比較的歩くのも速いし、結構一人の時は悶々と色々な事を考えていたりします。考えている事の大半は誠に下らない事なのですがね。或いは、ボケーっとしている時も多々あります。小難しい顔をして、実は何も考えていない事もよくあります。
十代の頃には母に「何を考えているのか分からん」と言われる事が多かったですし、恋人や友人に「何を考えているの?」と聞かれる事も多かったです。そういう時はいつも、にべも無く「別に」と答えるだけなのですが、大概は下らない事を考えているだけだったり、何も考えていなかったりする事が多いので、「別に」としか答えられないのです。

では、下らない事を考えているとは? その多くは、「もしも○○だったら、私はどうするだろうか?」というもしも話です。私は会話の中で「もし○○だったらどうする?」なんて事を言う事がたまにあるのですが、それと同様、脳内でそんな事を考えている事もあります。空想好きのちょっと危ない野郎なのでしょう。
例えば、「もしも自分の愛する人が不治の病になり、私の命を断つ事で、臓器移植で生き延びられるとしたら、私はどうするだろうか?」とか……今自分には愛する人がいないので、まさしくただの空想なのですが。私は存外恰好付けなので、「病院突入&自害という強硬手段に出て、臓器を提供したら恰好良いよなあ」なんて思っていたりします。たまーに、恰好良い自己犠牲で死ねたら、それはもしかしたら、私にとって最も幸福な死に方ではないかとも思っています。
この辺りの根本的な考え方、幼少の頃から見ていた北斗の拳で、南斗水鳥拳のレイや南斗白鷺拳のシュウ、そして拳王ことラオウが好きだった理由なのだと思います。
                                       駅員@意外にナルシシスト

2008年3月10日(月)
駅日誌(854) 「食べ物を残すと目が潰れるのか」

土曜日のスノーボードの荷物(板と靴)は、宅配便で送りましたので、今日はその受け取りのために早く帰る必要がありました。最も遅い時間帯で20時〜21時だったのです。帰って荷物を届けてもらい、テレビを点けると、TBSで「東京大空襲」のドキュメンタリー&ドラマが放送されていました。
ドラマパートでは、写真撮影が得意な警官による東京大空襲の被災体験及び、その様を捉えようとしてカメラを手に焼け野を駆け回るという筋の話です。そのストーリーの間に、太平洋戦争の戦況、米軍の動きや、戦時の社会情勢、現在も生き延びている人のインタビュー等がドキュメンタリーで挟まれています。南方戦線の陥落状況、B29爆撃機の開発経緯、焼夷弾(ナパーム弾)の開発経緯等……その中には、当時の食事についての部分がありました。「はだしのゲン」や「蛍の墓」等で観たものに近い印象です。
一日に配給される食糧、虫の調理法、またドラマ内で主人公が米が手に入らずに、まだ実が多少残っている麦わらを購入するシーン、等々。それを見て思ったのですが、矢張り食べ物を残すような行為は地獄行きだなと思いました。
私は仕事柄、食べ切れない程の食べ物を購入したりする事があります。勿論、なるべく捨てたくはないのですが、食べずに捨ててしまう量も少なくはありません。昔は「食べ物を残すと目が潰れる」等と言ったものですが、それならば、私の目はとっくに潰れていてもおかしくありません。
だがしかし、そんなのは迷信だと言い切れるのでしょうか? もしかしたら食べ物を粗末にする事と視力には、何らかの関連があるかも知れません。
現代人は昔の人よりも、或いは先進国民は途上国民よりも、視力が落ちていると思いませんか? そりゃあ、テレビだのパソコンだのゲーム機だの、目に負荷がかかるものが増えたという事もあるとは思います。しかし、一方で現代人は昔の人よりも、先進国民は途上国民よりも食物を粗末にしていると思います。日本の残飯の量は食糧の20〜30%に相当するそうです。そして、これは世界中の餓死者を救ってもまだお釣りがくるだけの量なのです。もしかしたら、視力の低下と残飯の量には関連があるのではなかろうか? だとしたら、強ち「食べ物を残すと目が潰れる」は嘘ではなくなります。いや、科学的根拠は一切ないのですが。
                                     駅員@全く論理的でないなあ

2008年3月9日(日)
駅日誌(853) 「銭ゲバ」

時間がある時に大きな本屋に行くと、妙なコーナーに足を運ぶ事があります。その一つが「マニアック漫画コーナー」でありまして、マイナーな漫画の中から、ちょっと興味を惹かれたものがあると買ってみたりします。
今回はジョージ秋山作「銭ゲバ」という漫画の文庫版上下巻を買ってみました。ゲバは恐らくゲバルト(力、暴力)の略で所謂「ゲバ棒」のゲバですね。要は極端なまでに守銭奴で「金=力」という考えの異常人間を主人公とした漫画です。
主人公蒲郡風太郎は、貧乏な少年時代を過ごします。父親は飲み屋の女と蒸発し、病気の母と二人暮しだったのですが、その治療費を払えず、医者に見捨てられて死んでしまいます。金の力を見せ付けられた風太郎は、銭を絶対的な力と見るようになり、金のために手段を選ばない人間になります。文字通り手段を選ばず、金のためならば盗みも殺人も平気で行います。地元の長野を離れ上京した風太郎は、とある社長に目を付け、狡猾で強引な手段を用いて社長の座に迄昇り、政治家を金で動かして知事選にまで進み、急転直下のラストを迎えます。その間、何人もの人間をその手で殺し、何人もの人間を金で操ります。

読み始めた時に先ず思ったのは、「きったねえ絵だなあ」という事。雑で御世辞にも上手いとは言えません。そして、ストーリーも強引過ぎて、粗を探せば穴がいくらでも見付りますし、科白の言葉選びも雑です。それでも、上下巻900ページ近くある作品を一気に読ませるだけの刺激があり、心に響くものがあります。
刺激的なのは、殺人シーン、強姦シーン、公害病患者の描写等、えげつない描写が沢山あるせいもありますが、人間から綺麗事を取り去ると、皆こうなってしまうのではないかと思わせるものがあり、全くリアリティがない話なのに妙にリアリティが感じられます(矛盾表現ですが、そういう感じなのです)。
似ていると思ったのは、梁石日の小説「血と骨」ですね。蒲郡風太郎は、「血と骨」の金俊平(映画でビートたけしが演じた主人公です)に似ています。
こんな欲望と暴力をストレートに描いた過激な漫画なので、初出は成人誌だとばかり思っていたのですが、何と1970年の「週刊少年サンデー」だそうです。今では三大少年漫画誌の中で最も甘口(だと私は思っているのですが、今現在は正直分かりません)のサンデーに載っていたとは!
尚、この作品と同時期に、少年マガジンでは、「アシュラ」という漫画も連載していたそうです。そっちは、飢餓のあまり人肉を食って生き延びた子供を扱った作品だそうで、こっちもえげつなさそうです。こんな作品を平行させて書いていたなんて、精神がちゃんと持ち堪えられたのかと心配になりますが、そっちも機会があれば読んでみたいと思っています。

最近、本について書くのは漫画ばかりですね。勿論活字も読んでいるのですが……
                       駅員@あんまり人に御薦め出来る本ではありません

2008年3月8日(土)
駅日誌(852) 「雪板及び雪合戦」

日帰りでスノーボードに行って来ました。今回の面子も会社の同僚なのですが、全て私より若い後輩たちです。
今年は愛車を雪山仕様にしたのですが、私の車は小さいので、大きな荷物を積んで車で行こうと思うと、3人までしか乗れません。というわけで、今回は新幹線です。幸いGALA湯沢という新幹線駅直結のスキー場があるので、そこに行きました。泊まりで滑りまくるのも楽しいですが、日帰りで翌日が日曜日というのも余裕が持てる面では良いと思います。

さて、何なんでしょう。私はどういうわけか、上の人からも下の人からも扱われ方が似ているような気がします。「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」における山崎邦正のようなポジションと言いましょうか。先輩であるダウンタウンからも、後輩であるココリコからもいじられているというポジションです。
先輩でも後輩でも、一緒に雪山に行くと、雪玉をぶつけられたりします。勿論、それくらいでは怒りませんが、どういうわけか、私vs他という構図になる事が多い気がします。
しかし、扱われ方が同じになるというのは、もしかしたらその根本にあるのは、先輩に対する私の態度と後輩に対する私の態度の違いが薄いからかも知れません。私vs他になった時は、先輩だろうと後輩だろうと、当然「この野郎〜!」とやり返します。

更に言ってしまえば、私は自分より下の者に甘く、上の者に食って掛かる所があります。基本性格の一つに「判官贔屓」という要素があるのでしょう。弱い者と強い者がいれば、私は大抵弱い者に肩入れしたくなります。ですから、強者に弱者がやられたり、強者間の皺寄せが弱者に回って来ている様を見ると、何とかしてやりたくなります。10代の頃に、弱者を助けてやれなかった臆病者だった自分の姿が、嫌悪感を伴って脳裏に蘇ります。
しかしながら、今でも勿論、助けてやりたくても助けてやれないという事に葛藤する事も多々あります。望む理想と自らの無力のギャップに辟易します。
                   駅員@しかし、男たるもの、志は高く持たずにはいられない

2008年3月7日(金)
駅日誌(851) 「総裁グレート・ムタ?」

プロレスラー武藤敬司が、米国のプロレスリングに上がる際に出来たキャラクター、それがグレート・ムタです。何でも、元々はグレート・ムトウの筈だったのに、ムトウという発音が英語ではなかなかナチュラルに出難いとの事で、ムタになったそうです。ムタの出身は、ルイジアナ州ニューオーリンズ……嘘を吐け! 山梨県出身やないか!
得意技は、シャイニング・ウィザード(相手の膝を踏み台にした膝蹴りまたは回し蹴り)、ムーンサルトプレス(トップロープからのバック宙ボディプレス)、そして毒霧。
キャラ作りといい、技といい、エンターテイナーやのう、流石は平成のミスタープロレス。

……と、また枕が長くなりましたが、今日の日誌にで触れたい武藤は、敬司ではありません。勿論、ブラック無糖でもありません。今話題に上る武藤といえば、次期日銀総裁候補の武藤敏郎氏ですね。
政府がとうとうごり押しで、武藤総裁指名を敢行しました。これに対し、野党がどう出るのか? 政局が不安定です。サブプライムローン懸念のある今、福井総裁の任期切れ後に空白が出来てしまうのは非常に危ない事だと思います。
ですから、政府としては、「何ぼ野党でもその危機を回避する筈」との目論みなのか、仮に空白が出来た時には「野党が意地を張ったせいだ」との論を展開するという事でしょう。おいおい、政争の具にしちゃって、本当に大丈夫なんかいな? 福田首相と小沢代表がちゃんと話し合って欲しい所です。私は小沢は結構好きだったのですが、最近ちょっとそれが揺らいでいます。民主党代表になってから、どうもおかしいと思います。
それにしても、どちらも意地っ張りだなあと思います。真の目的=日本国を良い方に導くリーダーとしては、時には恥辱を被るくらいの器が欲しいです。真の大物は恥辱を被ってもくすむ事はないと思うのです。否、それどころかその器の大きさを賞賛される事もあると思います。

最近、職場で私が常々思っている事もこれに非常に似ています。私の勤め先の上層部には好き嫌いで仕事をするかしないかを分けている、或いは仕事に対する姿勢が異なる人が沢山います。そりゃあ、何年も働いていれば、色々な確執があるんだろうとは思いますが、「仕事なんだからそんな心の狭い事をするな。村社会か、お前等は」と思っています。
最近、その村社会的な意識が一つ下の後輩にも垣間見えた事があり、内心非常に悲しくなりました。
そんな心の狭い連中に、毒霧を吹きかけてシャイニング・ウィザードをかましてやらないといけないのでしょうか。
                    駅員@私も決して心が広いってわけではないのですがね

2008年3月6日(木)
駅日誌(850) 「楢山節考」

少子高齢化が叫ばれて久しいですが、近未来には「楢山節考」のような世の中が復活するのではないかと心配です。「楢山節考」とは、昔話の「姥捨て山」をベースとした小説です。
「姥捨て山」では、足を引っ張る老人排除の指令が殿様から下ったのに対し、ある一家は年老いた母を捨てられず、縁の下に隠します。
やがて、殿様が隣国の殿様から難題(巻貝に糸を通すとか、灰で縄を綯うとか)を吹っ掛けられるのですが、それに対して臣民に難題を解いた者に褒美をやるという布告を出します。主人公一家は、縁の下の母に問いますと、それをたちどころに解いてしまうのです。殿様は「一体お前は何故そこまで頭が良いのか?」と問いました。そこで、「これは実は母の知恵なのです」と答えたため、殿様は老人を捨てる指令を取り下げたという話です。
「姥捨て山」は、このようにハッピーエンドに終わりますが、「楢山節考」は後味の悪い終わり方です。結局は泣きながら、年老いた母を山に捨ててしまうのです。

さて、Yahoo!の記事で見たのですが、千葉の鴨川で、87歳の爺さんが82歳の婆さんを殺しました。この老人二人は夫婦であり、きっと60年連れ添ってきた事でしょう。「60年一緒だった人間を殺すなんて酷い!」という声もあろうかと思います。
が、この爺さんを一方的に責めるのは酷です。何故、婆さんは殺されたのか? それは、介護疲れだそうです。87歳の爺さんが、寝たきりの82歳の婆さんの介護をしていたのです。私には、老人介護施設で働いている友人がいますが、その人の話を聞いていると、矢張り結構体力を使う仕事だそうです。87歳の爺さんにまともに出来る事ではないのではないか!? と思います。尚、その家族の構成は、あと爺さんの息子とその娘(爺さんの孫)だけです。息子は働いているでしょうし、孫娘は学校に行っているでしょう。面倒を見られる人はその爺さんだけだったのです。

最近、こういった介護疲れによる殺人事件が増えています。老年人口が更に増えるのはこれからですから、今後はこの手の悲劇がもっともっと増えてしまうのではないかと思います。いったいどうなってしまうのでしょうか。打開策はあるのでしょうか?
老年人口の比率が増えてしまう事が問題ならば、単純に言えば、その比率を正常化すれば良いという事になります。その方向性としては、2つあります。
1つは結婚&出産を後押しする事です。分母を増やせば、比率は維持されます。「独占禁止法」ならぬ「独身禁止法」、「二人っ子政策」……結婚&出産を組織が統制してしまうのは、どこぞのカルトのようで危険ですね。

いま1つは、誠に恐ろしい事なのですが、前述の「楢山節考」です。分子を減らせば、比率は維持されます。
2つとも非人道的であり、誰もが否定する事でしょう。しかし、もし「そうしないと人類は滅びる」という事であれば、完全に無いとは言い切れません。人間は歴史上で信じられないような悪を散々行って生き延びてきているのです。
                     駅員@人間の寿命は延び過ぎてしまったのでしょうか?

2008年3月5日(水)
駅日誌(849) 「メドベージェフ」

先日、ロシアの大統領選挙が開催され、プーチン前大統領が支持するメドベージェフが勝利し、新大統領となりました。
しかし、今「支持」と書きましたが、「指示」もしそうな気配です。プーチンは首相となり、実質的には院政のような状態になるのです。メドベージェフは42歳だそうです。先進国のトップではずば抜けて若いのではないでしょうか? 若造を担ぎ上げて、実権は手に持ったままという事なのでしょうか。ですから、政治の基本路線はキープコンセプトのようです。欧米によるミサイル防衛網に反対を表明し、経済活性化にも注力する事でしょう。とは言え、元KGBのプーチンよりはソフト路線になるだろうと言われています。

新しい大統領を見て、またもロシア指導者ハゲフサローテーション(「つるふさの法則」と呼ばれています)が継続される事になりました。というのは、ソヴィエト連邦のレーニン以降、ハゲとフサフサが交互に指導者になっているのです。これは結構有名な話なのですが、以下のようになっています。
レーニン(ハゲ)→スターリン(フサ)→フルシチョフ(ハゲ)→ブレジネフ(フサ)→アンドロポフ(ハゲ)→チェルネンコ(フサ)→ゴルバチョフ(ハゲ)→エリツィン(フサ)→プーチン(ハゲ)→メドベージェフ(フサ)……と、こういう具合です。大学時代、「ロシア経済」か何かの講義で、ロシア指導者のマトリョーシカを一個一個取り出しながら語っていたのが面白かった記憶があります(因みに、帝政ロシアに遡っても、4代前くらいまではこの法則同様になっているそうです)。
さて、歴代書記長の名前を調べていて見付けたのですが、フルシチョフって、フルネームではニキータ・フルシチョフというんですね。ファーストネームが「ニキータ」、そしてほぼ完全なスキンヘッド、何だか可愛い……
                                駅員@さて、対日政策はどうなるか?

2008年3月4日(火)
駅日誌(848) 「年不相応?」

私はよく年不相応だと言われます。その多くは、年上に見られる事なのですが、逆の場合も極稀にはあります。人並み外れた人間の重みのせいだ!! そうに違いない!!
いや……どうやら老けて見えるようです。


社会人1年目・2年目は、10歳程年上の先輩と得意先に行く事が多かったのですが、応接室に通され、内勤女性が御茶を置く時に、私の前に先に置く事の方が多かったのです。私とて、ビジネスマナーも多少は存じていますので、必ずドアに近い方に座っていたにも関わらずです。じゃあ、何か? 「中心となって話すのは、お前だから、俺は端っこで良いよ」とでも言っている上司なのか、俺は?

もう長いこと行っていませんが、キャバクラなんかに足を運ぶと、年齢の話になる事があります。私はホステスの年齢クイズに挑みつつ、必ず私の年齢も「幾つだと思う?」と訊きますが、先ず当たりません。こういう店は、第三次産業=サービス業なので、接客が命ですから、その答えた年齢がリップサービス込み(若く見積もっている)の筈なのに、必ず上を行くという有様です。

最近、社会人になって初めて自分の部署に自分よりも若い後輩が入りました。「こりゃあ、先輩として頑張らんといかんなあ」と思い、極力質問等は聞こうという姿勢でおります。しかし、仕事以外の話題で、ちょくちょく「お爺ちゃんみたいです」と言われます。この後輩とは3歳しか違わない筈なのになあ。
ていうか、上記2例では、「おっさん」扱いだったのに、とうとう「お爺ちゃん」扱いか……通常の3倍で年を取っているのでしょうか?
                                        駅員@シャア専用加齢?

2008年3月3日(月)
駅日誌(847) 「取材を受ける」

私駅員の所に、記者が取材に来ました。とうとう、私の時代がやってきたのです……と、声高に笑いたい所ですが、なんて事はない、社内報の取材です。
午後早い時間に会社から帰り、私の巣に、会社の社内報担当者と記者がやってきて、取材を受けました。
私のプライベートが公開されてしまうわけです。しかし、それはそれ、流石はプロ、生活臭がむんむん漂う部屋から余分な物を排除し、私の生活がやたらと垣間見えないように考えてくれました。
ところが、自宅なのでという事で、帰宅時のままのスーツではなく、リラックスモードの服装に着替えてくれとの事。着替えましたよ、これ以上リラックスした恰好があるのか? というような恰好に。生憎、ヌードではありません。折角写真を撮ってくれるので、ちょっとグラビアポーズ的な事もしてみたのですが、敢え無く却下……結局、どういう人間なのか余計に分からなくなるような写真になってしまいました。訊かれた事も、いったいどんな記事になる事やら……楽しみなような、心配なような。

私の好きな歌の一つ、ブルーハーツの「ロクデナシ」の歌詞に「要領良く演技出来ず、愛想笑いも作れない」とありますが、私は簡単に笑顔を作らされてしまいました。普段はムスッとしているのですが、笑い易い質なので、簡単に「満面の笑顔」の写真を撮られてしまいました。
                                          駅員@笑顔が素敵?

2008年3月2日(日)
駅日誌(846) 「せれぶれいと」

今日、会社の同僚同士の結婚式がありました。私はその新婦と同じ部署だった事もあり、二次会に呼ばれたのでした。心から幸あれと思います。
こんな事を書くと、ぶん殴られそうですが、その新婦は、何となくそれまでの人生において幸福に恵まれていなさそうに見えていたので、これから二人で沢山幸せを見付けて行って欲しいと思います(本当、失礼極まりない……ですが)。Celebrate(祝福する)です。
さて、次はもう一つの「せれぶれいと」です。Cerebrate(考える)。実は私は上記みたいに偉そうに語れるような立場ではなかったりします。「人の事をとやかく言っている場合か!自分の事を心配しろ!」なんて言われてしまいます。他人をCelebrateし、自分の事をCerebrateしよう……
                                駅員@御二人の幸多き未来を願って

2008年3月1日(土)
駅日誌(845) 「意識を変えないと」 

やるべき事が多い日というものも、たまにはあります。
今日は朝から、会社の同僚とバスケットボールをしました。どうも考えながら動くスポーツは苦手なようです。若き日は陸上部でしたし、駆け引きの無いスポーツの方が向いているみたいです。
では、体力はあるのか? と問われると、寄る年波には勝てませんね。すぐに肩で息をしてしまいます。昔は「技が無ければ、体力で補えば良い」という考え方でして、それで何とかなったのですが、そうも言っていられなくなりました。意識を変えないと。

その後、中目黒にて、「仏像彫刻写真展」というのが開催中だとの事で、一人でそれを見に行きました。私は年賀状は木版画を彫りますし、当地獄三丁目駅には「蜘蛛の糸」という守り本尊のコーナーがありますし、実は私の趣味と合致しているのです。
ところが、図書館の脇にちょろっと写真が貼ってあるだけで、規模・濃度ともにいま一つでした。無論、写真に映っている木像は上手いのですが、如何せん写真だけなので、サラッと見て帰りました。
彫刻家の腕の差なのか、写真家の腕の差なのか、それとも歴史が染み込んだ重みの差なのか……恐らくその全てだと思うのですが、歴史的大家の作品は図版で見ただけでも凄みが伝わるのに対し、残念ながら今回は圧倒されるような物は感じませんでした。長い歴史を経ても支持されるとは、こういう事なのだと思いました。
さて、芸術作品を観ると、自分もやってみたくなるのが私の常です。が、結構何でもそこそこのレベルには行けるのですが、器用貧乏というか、どれもそこそこ止まりです。そこそこで満足しているからいけないのでしょう。意識を変えないと。


帰宅後、洗濯機を回しながら掃除を始めました。
私は基本的に掃除が嫌いで、結構埃だらけの部屋に住んでいるのですが、月曜日に来客が入る事となったのです。何かと大変でした。埃だらけでも平気なので、今まで意識していなかったのですが、掃除しにくい配置なのです(床に直接本が積んであったり、机の周りに机に置き切らなかった物が置いてあったり)。意識を変えないと。
先ずは、明日はホームセンターで収納関係を調達して来ようと思います。

                                            駅員@疲れた……
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