東海道五十三次歩行記録 2009年9月〜2010年10月

 (01) 日本橋〜品川宿〜川崎宿〜神奈川宿。
 (02) 神奈川宿〜保土ヶ谷宿〜戸塚宿〜藤沢宿。
 (03) 藤沢宿〜平塚宿〜大磯宿〜小田原宿手前。
 (04) 小田原宿手前〜箱根湯本。
 (05) 箱根湯本〜箱根宿。
 (06) 箱根宿〜三島宿〜沼津宿〜片浜駅。 
 (07) 片浜駅〜原宿〜吉原宿〜富士駅。
 (08) 富士駅〜蒲原宿〜由比宿〜興津宿。
 (09) 興津宿〜江尻宿〜府中宿。
 (10) 府中宿〜丸子宿〜岡部宿〜藤枝宿。
 (11) 藤枝宿〜島田宿〜金谷宿〜日坂宿。
 (12) 日坂宿〜掛川宿〜袋井宿〜見附宿。
 (13) 見附宿〜濱松宿〜JR高塚駅。
 (14) JR高塚駅〜舞坂宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿。
 (15) 二川宿〜吉田宿〜御宿〜赤坂宿〜名電山中駅。
 (16) 名電山中駅〜藤川宿〜岡崎宿〜池鯉鮒宿。
 (17) 池鯉鮒宿〜鳴海宿〜宮宿。
 (18) (佐屋街道)岩塚宿〜万場宿〜神守宿〜津島神社。
 (19) 名鉄津島駅〜佐屋街道・佐屋宿〜桑名宿〜近鉄益生駅。
 (20) 近鉄益生駅〜四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿〜亀山宿。
 (21) 亀山宿〜関宿〜坂下宿〜土山宿〜水口宿。
 (22) 水口宿〜石部宿〜草津宿〜JR膳所駅。
 (23) JR膳所駅〜大津宿〜京都・三条大橋。

  by 駅員 @ 地獄三丁目駅

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2009年9月20日(日)
(01)日本橋〜品川宿〜川崎宿〜神奈川宿

今年は9月にも5連休がありました。5月のゴールデンウィークに対して、そして、敬老の日を含むという意味合いもあり、シルバーウィークと言われました。そんな中、東海道五十三次歩きをやってみようと思い立ち、20日〜23日の4日を使って、どこまで歩けるものかとチャレンジ致しました。スタートは東京・日本橋、ゴールは京都・三条大橋です。

20日、電車で日本橋まで出向き、スタート。
しばらくは、平日出歩く所と代わり映えせず、街道を歩いているという感じは一切無し。日本橋〜京橋〜銀座〜新橋。新橋のガードをくぐり、第一京浜道路を歩きます。
やがて、芝大神宮に到着。近いのに初めて来たのですが、ここは鳥居の上から東京タワーが見えるという、なかなか面白い神社でした。また、本殿を挟む狛犬の下には「め組」と書いてあります。歌舞伎にもなった「め組の喧嘩」(火消しVS力士の喧嘩で、負傷者99人)の舞台だそうです。丁度この日は祭りのようで、神輿が出ていました。神輿を担いでいる人々を尻目に、通り沿いの喫茶店で休憩。
  
左:日本の道の起点、日本橋。
中:芝大神宮。屋根の上に見えているのが東京タワーです。
右:芝大神宮から出た神輿。


また第一京浜を只管歩きます。やがて田町駅前を通って品川に到着。品川駅を越えた辺りで、国道を離れて旧街道へ。江戸から最初の宿場、品川宿です。ここからはひなびた商店街を歩きます。連休だからなのか、それとも元々ひなびているのか、殆どの店が閉まっています。そろそろ食事にしたいのですが、これと言って東海道っぽい飯屋もなく、安い蕎麦で済ませました。

商店街が終り、再び国道に合流する辺りに、鈴ヶ森刑場跡があります。ここでは、1651年〜1871年の間に、10万〜20万人の罪人が処刑されたとか。街道沿いにあるのは、見せしめのためのようです。処刑の後に獄門とかで晒されていたのでしょうか。そこから国道に合流し、平和島競艇のそばを通って歩きます。
 
左:「紀州犬のプーと申します。しらない人にはなれないのでさわらないでね」。
右:鈴ヶ森刑場跡。

う……ちょっと腹が痛くなって来た。暑いので結構がばがばと冷たいものを飲みながら歩いていたせいでしょう。しばらく行くと、産業会館のような場所があったので、そこで厠を拝借。何やら催し物があるようで、人が結構居ます。トイレを出て冷静になって見ると、どうもオタクっぽい人が多いような……いわゆるコミケというやつなのでしょうか? よく見ると入口にもそれっぽい看板が……そこで更にもう一歩冷静になって見ると、私は今年から眼鏡を掛けており、更に着替えを詰めたリュックも背負っています。ここから出て行く私の姿、これでは思いっ切り彼等のお仲間みたいではないか……

そそくさとその産業会館を後にし、更に国道沿いを西へ。やがて六郷川(現・多摩川)にかかる六郷橋を渡ります。ようやく神奈川県入りです。
そこからはまた旧街道に入ります。川崎宿に到達。鶴見川を越え、鶴見駅の先からは魚河岸どおりと呼ばれる旧道を通ります。通ったのが夕方近くだったので、何も無い通りなのですが、ここは、朝通ったら魚屋が開いているのだろうか……それとも連休でここも休み?
何事も無く魚河岸通りを抜けると、やがて麒麟麦酒の横浜工場が見えて来ます。この辺りの地名が生麦。この地名を狙ってここに工場を建てたのだろうか? 麒麟麦酒の敷地の隅に「生麦事件の碑」がありました。
  
左:街道沿いの居酒屋「たべるな」。食わずに只管飲めと? 私には無理です……
中:鶴見に宇宙人出現。
右:「生麦事件の跡」。薩摩藩大名行列を横切った英国人を藩士が殺傷。


ここからはまた国道を歩きます。だんだん日が傾き、辺りが暗くなってきました。もう秋ですね、18時にはもう暗くなってしまいました。何とかかんとか、神奈川宿(横浜)まで到達。

今回の旅は、一日でどれくらい歩けるか分からなかったため、宿の予約はしていません。だがしかし、横浜でわざわざ泊まるのもなあ……
一旦電車で引き揚げる事にしました。翌日はまた電車で横浜まで来てスタートです。この続き(21日分)は明日書こうと思います。

東海道五十三次(1)歩行距離 : 27.5km+α。

2009年9月21日(月)
(02)神奈川宿〜保土ヶ谷宿〜戸塚宿〜藤沢宿

横浜に泊まるのも何だかなあ、という事で一旦帰った翌日。再びそれと同じ路線に乗って横浜へ。
横浜駅から出て西へ歩き、街道に復帰。環状一号線の脇にある旧街道を歩きます。しばらく行くと、そのまま保土ヶ谷宿に着き、その通りは商店街になっています。
ここの商店街は旧街道にあるにも関わらず活気があり、前日に通った品川宿の商店街とは全く違いました。特に八百屋に活気がありました。商店街の外れで軽い昼食を済ませ(またしても街道歩きらしいものは食べられず。レトルト味のカレーでした……)、そのまま道なりに歩いて行くと、帷子川です。
帷子川に緋鯉の姿が見えたので見下ろすと、それまでは気が付かなかったのですが、黒い鯉がうじゃうじゃと橋の下に群れていました。皆一様にこちらを見て口をパクパクしています。この橋から餌を与えられているのでしょう。しかし、余りに数が多過ぎてグロテスクでした。
川を越えると相鉄の天王町駅があり、そのガードをくぐります。くぐった先には旧帷子橋跡として、橋の模型がありました。
そこから更に進み、国道一号線に合流。その脇を歩いて行くと、やがて坂道に差し掛かります。「権太坂」というその坂は入口が結構急な坂で、急な部分を過ぎてからもまだ上り坂が続きます。上り切った所に境木地蔵尊という地蔵堂があり、そこが旧武蔵野国と相模国の境目だとか。そこからは「品濃坂」という坂を下って行きます。
JR東戸塚駅付近を過ぎてまた道なりに歩き、JR戸塚駅そばの踏み切りを渡ります。駅の側で、且つ同じ方向の路線が複数あるこの踏み切りは、いわゆる「開かずの踏み切り」で、私は上下合わせて4本の電車を待つ事になりました。何でも、この開かずの踏み切り解消のために、立体交差工事が進行中だそうです。丁度この辺りが戸塚宿になります。
駅の近くには、清源院長林寺という寺があり、そこには徳川家康の妾だった「於万の方」の墓があるそうです。「於万の方」と言えば、つボイノリオが放送禁止歌「極付け!お万の方」という歌を出しています。最低な歌なので、ここで触れるのはよしましょう。

尚、その寺の下には、あのガチンコラーメン道の佐野実が暖簾分けした「支那そば屋」がありました。
そのまましばらく平坦な国道沿いの歩道を歩き続けていると、やがて上り坂になってきます。その坂の上で国道から分岐した道を歩きます。ここからは長い下りが続いて、日が暮れる頃には藤沢宿です。
ここには時宗の総本山の遊行寺があるのですが、生憎もう辺りは暗くなってきていたため、寄るのはやめておきました。踊念仏をやっていた宗派なので、何ぞ面白い物でも見られるかと思ったのですが。

時宗は、浄土宗の派生なので南無阿弥陀仏の念仏を唱える訳ですが、時宗ではその信・不信は問わず、念仏を唱えるという行為そのものが極楽往生に結び付くといったコンセプトのようです。これでは、コントやなんかで「なんまんだぶ」とか「なんまいだー」とかと唱えているのと大差無いような気もするのですが……
何はともあれ、もう暗くなってきたので、ここいらで泊まる所を確保しないといけません。
大きなビジネスホテルがあったのですが、生憎満室。飯無しの旅館に泊りました。
 
左:保土ヶ谷宿商店街。 右:帷子川の鯉の群れ。
 
左:旧帷子橋跡。 右:藤沢宿前の道に咲いていた彼岸花。


この2日目の途中から足の裏に違和感が発生しました。大きなマメが出来たのです。そして、その後とうとう潰れました。足に鈍痛が走り、そこからはその潰れたマメを庇うように歩いたため、足の筋肉に妙な張りが出来ました。
一晩泊まれば潰れたマメの様子も治まり、再び歩けるだろうと思っていたのですが、翌朝も全く痛みは引かず、今回の連休は泣く泣くここまでと致しました。次の連休にはこの藤沢スタートで歩こうと思っています。

東海道五十三次(2)歩行距離 : 21.6km(日本橋〜49.1km)+α。

2009年10月17日(土)
(03)藤沢宿〜平塚宿〜大磯宿〜小田原宿手前

9月に開始した東海道歩きの続きです。前回が「藤沢宿」迄でしたので、今回は藤沢まで電車で移動し、その続きです。
JR藤沢駅から北へ歩き、国道一号線の隣の旧街道を歩いて西へ。新湘南バイパスの藤沢インター付近で一号線に合流します。しかし、今回はスタートから痛恨のミスをしてしました。県道43号線と44号線に分岐する所があるのですが、そこで道を誤り、東海道から外れて北へ北へと歩いてしました。「舟地蔵公園」という舟形の台に乗った地蔵の近くにある公園に、周辺地図があったのですが、それを見てようやくミスに気付きました。
今回の東海道歩きに先立って購入したガイド本『エコ旅ニッポン 東海道を歩く旅492km』が分かり難い!!
 三叉路等ではどの道に行ったら良いかをちゃんと書いて欲しい所なのですが、地図も文章も結構端折っているのです。私の方向音痴とガイドブック選択誤りという事もあるのでしょうが……書名まで出しましたが、これは誹謗中傷ではなく、あくまで書評です。来た道をそのまま引き返す気力は湧かなかったので、南西に針路を取り、旧街道への復帰を図りました。辻堂の辺りで国道一号線に復帰。
途中JR茅ヶ崎駅辺りに松並木があります。東海道の特徴の一つとして、所々に松並木の道があるという点が挙げられます。いかにも街道を歩いている気分になり、また今回のような日差しが強い時は日陰が出来るので有難いです。
さて、松並木の他に街道に多いのが宗教関係です。街道沿いには神社仏閣が多い印象があります。そして、「幸福の科学」(先の衆院選で随分候補者を出していた、幸福実現党の母体です)も何度も見ています。やたらと綺麗な建物です。金があるんだなあ……(アニメーション映画まで作っているし)。
また、神奈川県も西側に入ってくると、ダイドードリンコの自動販売機が多くなってきます。その勢力圏に入って来たという事でしょうか。
あと、今回の路程では石屋の前を通るのが多かったです。石仏から、キャラクター物まで色々並んでいます。
 
(左)藤沢近辺、街道沿いのラーメン屋「街道や」。後ろには灯台のような搭が。
(右)街道沿いに多い石屋。メロンパンナちゃんの隣に不気味な奴が居ます。


やがて、川幅の大きな相模川に差し掛かります。橋のそばには、旧相模川橋脚という史跡が残っていました。橋を渡ると、平塚宿です。尚、昔の元来の名称は「たいらつか」だったそうです。
そのまま西に進み、高麗山というこんもりと丸い山を右に眺め、海岸方向に進みます。平塚宿からの距離は短いですが、次の宿場、大磯宿です。大磯には、俳諧三大道場の一つ鴫立庵(西行を偲んで立てられたそうです)、島崎藤村旧宅、西園寺公望旧宅跡、伊藤宏文旧宅、吉田茂旧邸等、があります。吉田茂旧宅があるという事は、前総理も足を運んだ事が幾度かありそうです。ここからは街道が海に近く、所々見通しの良い所からは太平洋が見えます。と言っても、西湘バイパスという自動車道があり、海の手前には絶えず車が走っています。
二宮駅あたりで、日が暮れ始め、国府津あたりではもう真っ暗になってしまいました。日が短くなったものです。しかし、携帯で調べても泊まれそうな所がありません。何とか鴨宮でビジネスホテルに泊まる事が出来ました。夕食はその近くのファミレスで……実は、昼もファミレスでした(昼はパスタファミレス、夜は中華ファミレス)。うむー、食事的には旅情の欠片も無い。その反省から、翌日は只管前進するのではなく、観光色を強めようと思いました。幸いにも翌日の行程は、小田原〜箱根。大きな観光地です。続きは、その(4)にて。
  
(左)相模川手前にて、名物「でかまん」。
(中)鴫立庵。こういう所に隠遁して暮らすのも幸せそうです。
(右)大磯にて。見辛いですが、「血洗川」と書いてあります。何やら恐ろしげな。

東海道五十三次(3)歩行距離 : 約29.2km(日本橋〜78.3km)+α。

2009年10月18日(日)
(04)小田原宿手前〜箱根湯本

日に20kmも30kmも歩こうと思ったら、足の肉刺(マメ)対策は本格的にやらないといけないようです。今回も足の裏が痛くて痛くて……
痛くなったので、携帯で調べてみると、10km程度歩いてもなんとも無い足でも、20kmくらいから肉刺は出来てしまうのだとの事。私はそこそこの健脚を自負していたのですが、それでも20kmオーバーになると足に来るようです。筋肉や関節は何とも無いのですが、足の裏、それも一番力が掛かっている場所(足の裏の前方、指が並ぶ手前の所)に今回も肉刺が出来てしまいました。

昨日の日誌にも書いた通り、「第四日目は折角なのでただただ前進あるのみではなく、観光も兼ねよう」と思ったのには、肉刺という理由もあったのです。

土曜日に、藤沢〜鴨宮まで移動し、日曜日は鴨宮スタートです。街道から外れた所に泊まったので、先ずは国道一号線に戻ります。そこから酒匂川に掛かる酒匂橋を渡ります。しばらく行くと、小田原宿です。流石に小田原城を中心に観光にも力を入れているのか、「街かど博物館」なるミニ博物館が随所にあります。また、小田原宿の入口辺りで一号線から旧道に分岐するのですが、そこには蒲鉾屋がずらりと並んでいました。名物というだけあります。
ここで街道を外れて小田原城に向かいました。意外にも私は小田原城に来るのは初めてです。旅行という形で出掛けるには近く、ちょっと行くには遠いからでしょうか。
4月、5月、10月、11月には、鎧武者と一緒に写真を撮るという企画をやっているそうで、銅門の周りには具足に身を包んだ職員(ボランティア?)が多数居ました。彼等と一緒に並んで写真を撮れるという物なのですが、即ち、観光客が持っているカメラを武者の一人に渡して、その人に撮って貰うわけです。なので、武者姿でデジカメを構えるというなかなかシュールな画が撮れました。コカ・コーラ・ゼロのCMに出ていた「スーツ姿+ちょんまげ」や、東京ガスのCMに出ていた「織田信長」等のような、タイムスリップ侍の趣です。
石段を登り、天守閣に向かいます。途中、日本猿の檻がありました。尚、元々は猿の他にもインド象が居たのですが、残念ながらこの9月に死亡してしまったそうです。記帳簿や献花台がありました。梅子さん享年62歳。合掌。
続いて天守閣に上ります。内部は一般公開されている城の例に漏れず、歴史博物館になっていました。しかし、思ったより小さい。いや、日本式の城全ての中では比較的大きな部類ではあるのですが、有名な城なので、姫路城クラスのイメージがあったのです。
最上階からは、海側に伊豆半島、伊豆大島、三浦半島が見えます。一方陸側には、これから向かう箱根山も。
昼には小田原城近辺の土産物屋で、おでんと麦酒を頂きました。練り物の街っぽいチョイス。しかし、これから箱根に向かうのに麦酒はまずかろう……いや、今回はこのまま箱根越えはせず、箱根湯本あたりまでで切り上げようと思っていました。箱根湯本から先は、箱根登山鉄道ともルートが分かれてしまい、公共交通機関がありません(バスはある?)。山道の途中で真っ暗になってしまうリスクを回避し、次回、早起きして箱根湯本スタートにしようと思ったのです。
  
(左)小田原城天守閣。 (中)デジカメ侍。 (右)日本猿。


箱根登山鉄道に沿って一号線を進みます。この辺りは箱根登山鉄道の路線とは言え、実際に走っているのはロマンスカー等小田急の車両です。箱根湯本から先が、いわゆる本物の登山鉄道で、急坂を前後ジグザグに登っていく車両です。
途中にある風祭駅前には、蒲鉾の「鈴廣」の本社があり、その周辺は「かまぼこの里」と銘打ち、飲食店や大きな販売店「鈴なり市場」、「かまぼこ博物館」等が並んでいます。「鈴なり市場」には、蒲鉾、竹輪等の練り物を中心に幅広く商品を販売しており、店舗中央のガラス張りの一室では、職人が竹輪を手作りで作っていました。店の前の国道沿いにはには、「Fish Cake & Deli」と書かれたシトロエンH(アッシュ)が一台。魚肉ソーセージ(と言っても皮があり、内部は粗挽き構造)を使ったホットドッグ「シーセージ・ドッグ」を販売していました。
それにしても、こういった移動販売車ではシトロエンH(並びにVWタイプ2)は今だ現役で、且つその魅力衰えずです(VWタイプ2については、軽のワンボックスでレプリカまで作られている始末)。近年、旧車イメージをリバイバルさせたデザインの車が多いですが、これら移動販売車にもそろそろそういうのが出て来そうですね。

おでんだけでは物足りなかった私は、シーセージ・ドッグと試食を摘んで小腹を満たし、隣の「かまぼこ博物館」に入ってみました。中では、かまぼこ作り体験教室が開かれており、吹き抜けになっている二階に回ると、蒲鉾板アート・ギャラリーがありました。蒲鉾板を使って絵を描いたり、立体作品にした物が並んでいます。一般応募の他、著名人による作品も展示されていました。
博物館を出て、再び歩きます。箱根に向かう道は渋滞しています。三連休の真ん中の午後。行きか帰りかは分かりませんが、どこかへ泊りがけで出掛けた、または出掛ける人々なのでしょう。
夕方4時頃に箱根湯本に到着。折角なので、温泉に浸かって疲れを癒してから、電車で帰りました。
  
(左)かまぼこ手づくり体験教室。 (中)ちばてつや作蒲鉾板アート。
(右)道中で見かけました。ここは、空家なのか、それとも書道教室なのか?

東海道五十三次(4)歩行距離 : 約10km(日本橋〜88.3km)+α。

2009年11月1日(日)
(05)箱根湯本〜箱根宿。

11月1日〜2日と、9月下旬に始めた東海道五十三次の続きを歩きました。
前回は、小田原宿からちょっと西、箱根湯本まで進んで温泉に入って帰ったので、そこまで電車で移動してのスタートです。小田急箱根湯本駅を出て、三枚橋という橋を渡り、そこから坂を登って行きます。流石は箱根。その坂には温泉宿がいくつも軒を連ねていました。しばらくは車の行き交う狭い坂道の隅を歩くわけですが、やがて石畳の林道に入ります。風情たっぷりで、旧東海道を歩いている気分が盛り上がって来ます。
ここからは、断続的にこういった石畳の林道を歩く事になります。車道の端を歩いたり、車道を横切って渡って林道に入ったりを繰り返して登ります。石畳の坂には大抵「○○坂」という名が付けられており、その入口に坂の名前が彫られた石が立ててあります。中には「女転ばし坂」なんて凄い名前の坂も。尚、これらの石畳や土の林道はハイキングコースにもなっており、何度か山歩きをしている人と擦れ違いました。
途中、河原に出たので、そこで裸足になって川に足を浸しました。ああ、気持ち良い。足を冷水で冷やすのは、長距離歩行には有効な足の休め方だそうです。
  
(左)さるはし&猫。 (中)女転ばし坂。 (右)冷たくて気持ち良い川。


途中には、これまで通って来た東海道の例に漏れず、道祖神や小さな石仏、神社仏閣等が度々現れます。そんな中、一際異彩を放っていたのが「箱根大天狗山神社」。何やらカラフル。入口に「信者の方はどうぞお入り下さい」と書いてあります……排他的! だが、俺は信者ではないけど入る。
境内にはペンキみたいな塗料で金色に塗られた金剛力士や、梵字モチーフのオブジェが……ん? 神社なのに、仏教系の物ばかりです。何人か、在家信者と思しき参詣客に挨拶をされましたが、そえが気まずくなり脱出。振り返ると、塀の上に有刺鉄線があります。泥棒避け? それとも……? 私は「宗教は玩具である」が持論なので、宗教に貴賎を付ける気はありませんが、あくまで「玩具」として見ての話、ちょっとチャチな印象でした。

箱根湯本から6〜7km程の畑宿という辺りには、寄木細工屋が軒を連ねています。箱根の伝統工芸ですね。寄木細工の栞を買いました。
そこから更に山道を上って下って、芦ノ湖に到達。芦ノ湖では天気の良い日には「逆さ富士」が見える事もあるそうです……が、その日は大荒れ。望むべくもない状況です。風も強く、寒い! 喫茶軽食店で、珈琲を飲みました。珍しく砂糖を2杯も入れて甘くして。特に肉体労働者が缶コーヒーを好んで飲む理由が良く分かります。肉体を使うと、温かくて甘い珈琲が非常に美味いのです。
すぐそばには、大きな鳥居が見えます。携行している本によると、この鳥居の近くに「賽の河原」があるとの事。あれです、地獄で水子霊が「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは兄弟のため」というやつです……が、狭っ! 狭い敷地に地蔵が何体か置いてあるだけです。元々は広々としていたそうですが、廃仏毀釈の頃にこうなってしまったそうです。
更に南側の湖畔を歩いて行くと、箱根関所跡です。当時の関所を再現しており、なかなか面白い場所です。関所を越えると「箱根宿」になります。周辺にはホテル、旅館、民宿等があり、箱根駅伝折り返し点の近くには、記念碑が立っています。
  
(左)大荒れの芦ノ湖。 (中)写真右下の墓地状の場所が「賽の河原」です。
(右)関所跡の土産物屋の前にあった、首出し看板。


湖畔をぶらぶらして、時刻は16:00頃。雨が降り始めました。参った……今回は撤収するか? 携帯で調べると「明日の天気は、曇りのち晴れ」。箱根宿で泊まる場所を確保しようと思い、民宿に電話を掛けてみたのですが、1箇所目は不通、2箇所目が「休み」との返事。ここで心が折れて、箱根ホテルにかけてみると「御一人様だと2万円」……高え! 流石は富士屋ホテル系列という事でしょうか。
箱根登山バスで小田原に引き換えし、ビジネスホテルを確保。\4,700也。安っ! 御世辞にも上等とは言いがたいホテルでしたが、これで十分。翌朝は再び箱根登山バスで移動してスタートです。それは明日の日誌に。
東海道五十三次(5)歩行距離 : 約10.5km(日本橋〜98.1km)+α。

2009年11月2日(月)
(06)箱根宿〜三島宿〜沼津宿〜片浜駅

2日は平日でしたが、今日の文化の日と飛石連休になっていたので、有給休暇を取って4連休にしました。
小田原のビジネスホテルを出て、箱根登山バスで前日の到達地点、箱根宿まで移動してのスタートです。8時半頃に駅前でバスに乗ったのですが、やはり平日、駅前には出勤・通学姿の人が多数。その一方で、箱根に向かうバスを乗り降りする客は殆どが温泉客のようでした。
バスを降りて、先ずはビニール傘を購入。天気予報では曇りだったのですが、小雨が降っていました。傘を差して歩き始めると、雨以上に厄介なのが、濃霧。車道を横切るのが以上に恐ろしいです。車から発見されずに撥ねられやしまいか? そんな心配が生じるくらい濃い霧でした。息も白くなる寒さなのですが、薄着であるにも関わらず気持ちの良い寒さでした。スキー場の寒さのような。空気が綺麗なせいでしょうか。
箱根宿西端を出ると、箱根峠(標高846m)です。峠を越えると、そこからは殆どが下り坂です。と同時に、神奈川県から静岡県に入ります。ようやく神奈川県を抜けました。箱根西側も東側同様、「○○坂」と命名された石畳の坂が断続的に続きます。今日は平日で、しかも雨&霧のせいか、ハイカーには殆ど遭遇せず(それでもゼロではありません)。
「かぶと石」(兜の形をした石です)、「雲助徳利の墓」(雲助=人足。酒好きの人足を偲んだ墓)等の史跡があります。ここに限らず、史跡には墓が多いですが、死んでから衆目に晒されるというのは、どういう気分なのでしょうか。死人に口無し、訊けませんが。

だいぶ下って来て車道を歩いている所で丁度昼頃。腹が減ったなあ……と思っていると、炭で焼いていると分かる美味そうな鰻の香りがして来ました。鰻屋です。早速入ったのですが、テレビのロケだとかで一般客は15時まで食べられないとか! 何だと!? テレビ東京と地獄三丁目駅、どっちの取材が大事なんだっ!!(テレビ東京の方が大事です)
しょうがないので、もう少し下った所にある、昼は食堂、夜は居酒屋みたいな所で食事。シーズン物の牡蠣フライと、豚汁。あまり期待はしていなかったのですが、これはこれで美味でした。
 
(左)濃霧。真っ白です。
(右)「幾億の足音が坂に積もり、吐く息が谷を埋める。わが箱根にこそ」司馬遼太郎。


そこから更に進むと、降ったり止んだりしていた雨が上がり、晴れてきました。しかし、西の空にはまだ雲があり、富士山は拝めず。引き続き、車道脇と石畳を断続的に下って行きます。
下り坂は徐々になだらかになってきて、やがて平地になると、「三島宿」です。伊豆の国一ノ宮である三嶋大社では、七五三詣でをしている人が見受けられました。そうか、11月かあ。神社に詣でてから三島宿を抜け、「沼津宿」へ。

ここいらは、車道脇を延々歩くというコースになります。沼津宿の西端には、和歌山牧水の墓がある乗雲寺があります。もう日が暮れてきていましたが、沼津駅まで引き返すのも勿体無いので、このまま前進。この辺りは比較的温暖で苦にならなかったので、そのままJR東海道線の次の駅である片浜駅まで進んでから電車で帰りました。
  
(左)富士山は雲隠れ。 (中)三嶋大社の樹齢1200年の金木犀。
(右)三島駅広小路駅近辺にあった、井戸汲みロボ。


しかし、東京に戻って感じたのが、「寒い!」という事。長時間暖かい電車に乗り続けだった事もあるのでしょうが、朝の箱根の峠よりも寒く感じました。1日に出て来た時はこんなに寒くなかったのになあ……

東海道五十三次(6)歩行距離 : 24.4km(日本橋〜122.7km)+α。

2010年1月10日(日)
(07)片浜駅〜原宿〜吉原宿〜富士駅

そろそろその日のスタート地点まで移動するのが大変になって来ます。この日は9時頃出で、片浜駅に着いたのが12時頃。スタートの時点で昼です。次回からはもっと早起きするか新幹線を使わないとなあ……

街道を歩いて原宿(静岡のハラジュクです)まで行けば、宿場町だけあり何か食べる所があるだろうと踏んでいたのですが、殆ど宿場町の風情が無く、開いて居ない店も。しょうがないので、通り沿いのコンビニでおにぎりを買いました。しかし、そのレジで衝撃の事態が! 未成年には酒煙草は売らないという主旨の表示があったのですが、その表記が「20歳未満」ではなく「30歳未満」になっていました。ん〜? この辺りは30歳で成人するのか? 孔子の「三十にして立つ」か? 可笑しかったので、店員に「何故30歳と書いてあるのか?」と突っ込んだのですが、「分かりません」との弁。この店員は、阿呆なのか無愛想なのか?
店を出て更に西へ。旧街道は駿河湾をなぞるように通っている道なのですが、海は見えません。ここいらは退屈でした。
吉原宿の手前辺りまで来て、富士毘沙門天なる寺があったので、立ち寄りました。毘沙門天という事は、私の好きな憤怒相の仏像(要はいかつい仏像)です。
御参りした時に賽銭箱の脇の酒樽が目に付きました。「人類最強 石井慧」とあります。元柔道金メダリスト……しかし、大晦日に吉田秀彦に判定負けしとるやないかっ! 年が明けてから再起を誓って御参りに来たのでしょうか……?

やがて吉原宿。視界が開け富士山が見えます。この辺りから、製紙の街・富士の雰囲気が濃くなります。製紙会社の工場から伸びた大きな煙突から白煙が上がります。日曜日でも工場は回っているんだなあ。
吉原宿は商店街になっています。開いている店が少なかったのですが、印象的なのは中南米系と思しき店がちらほらとある事。この辺りの工場で働いている出稼ぎ労働者のための店なのです。
吉原宿を抜けると、駿河湾沿いの一本道とは違い、道が複雑になってきます。そして、とうとう警察の御厄介になっちまいました……道が分からなくなった所に丁度警察署があり、道を教えて貰いました。窓口の後ろの事務所は非常に急がしそうでした。事件・事故は止む事が無いのだなあ。潤井川の橋を渡り南西へ。冬の日は短く、程無く辺りが暗くなってきました。まずい、そろそろ宿を探さないと。はい、今回も泊まる場所は行き当たりばったりです。日の落ちた暗い道を歩き続けます。
JRで言うと富士駅の辺り、旧街道沿いに面したビジネスホテルを発見。幸い部屋も空いており、1月10日はそこに宿泊致しました。冬は日が落ちるのが早いので、それでもまだ18時頃です。食事の後は部屋でゴロゴロしてテレビを観て居りました。有料チャンネルも。

はい、そこの助平男! どうせ、「有料チャンネル=エロビデオ」だとでも思っている事でしょう。私が観たのは「志村けんのだいじょうぶだあ」です。田代まさしが映っているのを久々に観ました。志村けんもこの頃は今より面白かったなあ……
 

(左)富士毘沙門天にて。             (右)製紙会社の煙突と富士。
1月11日の路程は、この10日分より濃度があります。それは明日の日誌で。

東海道五十三次(7)歩行距離 : 16.7km(日本橋〜139.4km)。

2010年1月11日(月)
(08)富士駅〜蒲原宿〜由比宿〜興津宿

富士駅近くのビジネスホテルで折角泊まったので、なるべく早く出ようと思い、7時起きで8時スタートです。ホテルを出て西へ進むと、何やら無人販売のテーブルがありました。「青島\200」とあります。朝早いため、一つも物が置いてありません。何ぞこれは? 「あおしま?」それとも「チンタオ?」。この答えはやがて明らかになります。
しばらく進むと富士川に差し掛かります。堤防の内側で流域の無い部分の多い川で、木も植わっているため、橋がよく分かりません。地元の方と思しき人に質問致しました。丁寧に教えて頂き、富士川橋を渡ります。にも関わらず、恩を仇で返すような無礼な事を思ってしまいました。何かと言うと、「年配の方が、ブルーもグリーンも『青い』と言うのは分かりにくいなあ……」。最初は「あの青い橋」ってのが全然見付けられませんでした。

川を渡ると、高台に上がったり、新幹線や高速道路を潜ったりと、起伏のある道になりました。「間の宿・岩淵」という辺りだそうです。ふと見ると、何やら鉄格子の嵌まったハイツ的な建物が……これは一体? 玄関の一つにはチラシが入っています。て事は、誰か住んでいる? 狂人を収容する施設か? いい加減な事を言ってはいけませんが、鉄格子があるしなあ……
ちょっと行くと、またもや「青島」無人販売。しかし、ここには商品がありました。蜜柑です。そうか、蜜柑の銘柄だったのか! 一袋購入。ここからは休憩時の水分・糖分補給は、蜜柑です。果物に明るい人には愚問だったかも知れませんね。

高台を下ってJR東海道線に並行するように歩くと、やがて蒲原宿です。この辺りは宿場町の雰囲気をよく残していました。おっと、軽トラの荷台にパグが。小さい体で活発に動き回っています。近付いたら、飛び降りて襲い掛かって来ないだろうなあ……
 
(左)青島200円            (右)パグ(プライバシー保護のため、一部加工してます)


蒲原宿を抜け更に進むとすぐに由比宿に到達。こちらも蒲原を凌ぐ宿場町っぷりです。本陣には「歌川広重美術館」が。足休めも兼ねて入ってみました。浮世絵が多数置いてあります。多色刷り&グラデーション付きの美しい作品です。丁度「広重vs北斎」という企画をしており、見応えがありました。
それにしても腹が減った……それもその筈。朝にスタートして、もう正午を過ぎて居ます。丁度近くに「桜えび料理」という店があったので、そこで食事です。客の大半は車なので、昼間っから麦酒を飲んでいる人は殆ど居ません。私は徒歩なので飲めます。紅白丼セット(桜えび丼&しらす丼)を食べました。旅らしい食事です。

そのまままっすぐ進むと、「間の宿・倉沢」に到達。ここも宿場町風情がある場所です。倉沢の先には、薩た峠(「た」=土偏に垂)があります。峠はハイキングコースとして整備されており、蜜柑畑のある山を歩いて行きます。斜面の蜜柑畑には必ず小さなモノレールみたいな物があるんですね。小さくて人は乗れませんが、収穫した蜜柑をトラックの所まで運ぶのに使うのだと思います。
峠を降りると、墓地。むむ? 箱根にも西側に墓があったような……これはもしかしたら、西方浄土が見えるようにという事なのでしょうか。
 
(左)薩た峠からの富士(うっすら)。        (右)紅白丼セット。右上は生桜えび。


そのまま道なりに進むと、程無く興津川を渡り、興津宿に入ります。翌日は仕事なので、今日はここら辺で引き揚げるか、と思った時に、ガイドブックに興味深い文字が……「女体の森」。宗像神社の周辺にあるようです。男なら行ってみねばなるまい! と宗像神社に向かったのですが、神社を囲む小さな林はあるものの、それらしい場所は見当たらず、「女体の森」という表記も見当たりません。引き返そうと思って地面を見ると……わっ! 鳩の翼? 猫か鴉にやられたのか、骨付きの翼が落ちていました。神社にしては血生臭過ぎやしないか?
JR興津駅の近くには、「駿河健康ランド」という大きな温浴施設がありました。そこで一っ風呂浴びてから、帰途に就きました。この岐路からついに新幹線投入。ここからは、交通費が宿泊費を上回ります。なるべく泊まりがけ連チャンで行かないとなあ。次回は興津宿スタートです。
  
(左)山桜? 早い開花です。          (中)血染めの冷蔵庫? いえ、エコロジー。
(右)鳩の翼。グロ画像なのでモザイク処理致します。

東海道五十三次(8)歩行距離 : 22.1km(日本橋〜161.5km)。

2010年2月12日(金)
(09)興津宿〜江尻宿〜府中宿

金曜日に有休を取っていたので、12日(金)・13日(土)で東海道歩きの続きに行きました。

早起きをしようと思っていたのですが、起きたのが8時半。そこから新幹線&在来線で今回のスタート地点に向かいます。スタート時点でもう12時。今回は興津宿からです。自宅を出た時には雨は降っていなかったのですが、静岡は雨がそぼ降っておりました。とは言え、文字通り「そぼ降る」という感じで、風も殆ど無く、傘さえ差せば問題ありません。
鞄に入れておいた折り畳み傘を広げ、西へと歩き始めます。国道一号線やその脇の細い道を通って進みます。雨は傘で防げるものの、寒いため小便が近くなります。ダムが満水を迎えつつある頃に古本屋があったので、トイレを借りに入った所、「トイレは貸さないようにしている」との事で、このまま進んだ所にあるコンビニを薦められました。我慢して進みます。コンビニ発見……入口に「トイレありません」の文字! さっきのババア、騙しやがったな! このコンビニの入口で立ちションしてやろうか、それともダッシュで古本屋に引き返してその入口にしてやろうか!
と、思っていたら……しばらく進んだ所に、「夜は飲み屋で昼はカフェ」みたいな店があったので、そこに入りました。辛うじてまだトイレに駆け込む程の緊急事態ではないので、珈琲を注文してから、店のママ(?)と東海道歩きをしている旨を喋った後、トイレを借りました。こういう店で会話をすると、「旅をしている感」がして来ます。
小休止の後、再び進み、清水次郎長の清水駅の付近を通って、1号線を外れた道を更に西へ。江尻宿を通過します。この興津〜江尻辺りには、特に宿場情緒は感じませんでしたが、一つ面白い物が……とある寺の門の後ろに踏切があるのです。JRなのか静鉄なのかは忘れましたが、門と境内を電車がぶった切っているのです。おい! そんな所に電車通すなよ! それとも、割と新しい寺で、鉄道が通ってから建ったのでしょうか?
そのまま進んで静鉄長沼駅のそばに、建物の間から「BANDAI」のでかい文字が! ここが時折一般公開もしているというガンプラ工場か。「アナハイム・エレクトロニクス」というロゴマークまであります。そのアナハイム〜とは、物語中でガンダムを製造したとされる架空の会社の名です(うげげ、オタッキー!)。

どれ、見学は無理でも物販くらいはやっているだろう……二重自動ドアの手前は開くのですが、奥のは開きません。見ると、一般公開はしていない旨の断り書きがあります。でも、限定販売の「エコプラ」(再生樹脂を使った真っ黒のプラモデル)くらいは手に入れる方法があるだろうと思い、そこにあった来客用内線電話をかけてみました。曰く、物販もしていないとの事。ならば、そのエコプラはどこに行けば手に入るのかと問うと、ネット通販で買えるとの事。なんだ、帰ってネットで調べてみるか……で、今調べてみると、無いやないか!


気を取り直して再び西へ進み、静岡駅近郊・府中宿です。あたりはもうほぼ真っ暗です。宿を探さねば……うろうろしてビジネスホテルを発見して、早速電話をかけて部屋の空きを確認後すぐにチェックイン。さて、晩は何を食べようか。ホテルの部屋に周辺マップみたいなチラシがあったので、それを片手に周辺をうろうろ。すると、何やら白いテントがいくつも立ったちょっとした祭のような雰囲気の場所がありました。
「この串とまれ! しぞーかおでんフェア」との事。ほほう、ならば今日は静岡おでんを食べるしかあるまいて。そのおでんフェアの開催期間は12日〜14日。もし、木曜日から歩き始めていたら、開催されていなかったわけです。何というタイミングの良さ! おでん屋がいくつも店を出しています。おでんフェアのチラシを配っていたスタッフに御薦めを訊くと、「あさひ」と「おがわ」が老舗の有名店だとか。それぞれ5本を麦酒片手に食べました。黒はんぺん&黒い出汁&鰹の粉……独特ですが、これはこれで美味! 続いて、モツカレー(ライス無しのスープ的な物)と、他の地域のおでんとして出ていた姫路おでん5本セット。姫路おでんは、薄味のおでんを生姜醤油に付けて食べます。あっさり味でこれは締めに丁度良いと思いました。

腹も膨れたし、麦酒も飲んだし、部屋に引き返そうか……と思いながら先程ホテルの部屋から持って来た周辺マップを見ていると、近くの飲み屋の割引券が付いています。しかも、元の値段も結構安いではないか。1時間だけ行ってみるか。
1時間の間に3名の女性が横に座りましたが、全て地元の方でした。東海道歩きの事を話すと、丸子にある「丁子屋」という店のとろろ汁が御薦めとの事。昼のカフェといい、この店といい、地元の人から情報を得るというのも、何だか旅慣れて来た感じがします。

東海道五十三次(9)歩行距離 : 14.5km(日本橋〜176km)。

2010年2月13日(土)
(10)府中宿〜丸子宿〜岡部宿〜藤枝宿

江戸時代の人は、東海道五十三次を12泊13日で歩いたと言います。私の場合は、今回の日誌更新分(13日土曜歩行分)で10日目です。随所で観光したり、面白そうな店があれば入ってみたり、道を間違えたりしているせいもありますが、それにしても遅い。10日間でまだ半分も来ていません。

府中宿(静岡駅近く)で一泊して、朝食を摂ってから歩き始めます。幸い雨は上がり晴れています。西へ西へ……B級センス漂う商店街(だんだんB級看板等を見る事が増えて来ました。今度、東海道珍写真集のページを作成し、そういうのはそちらに載せようと思います)を抜け、安倍川に掛かる橋を渡ります。川のほとりには、やっぱり安倍川餅の店もあります。
続いて丸子川(まりこがわ)のそばを歩き、丸子宿に到着。国道沿いに「丸子梅園」なる梅園を発見。入場料500円を支払い、紅白の数々の梅の花を愛でました。梅の花って所が、何となく風流人です。奥の方には「うめ薬師」なる仏像があるとの事。仏像好きとしてこれは見逃せません……だがしかし、ちっぽけでしかも柵から遠く、ディテールが全く分からん!
  
↑B級看板&梅の花


梅の花を見ている内にもう昼前。花より団子ではないですが、腹ごしらえです。昨夜情報を得た「丁子屋」に入り、とろろ汁セット(刺身付き)を食べました。要は麦とろ御飯です。しかし、自然薯を使っていてなかなか美味。しかも麦飯は食べ放題! 刺身もあったので、小ぶりな御櫃に2杯平らげました。満腹! これがもし車だったら、シートベルトで腹が圧迫されるので満腹は危険ですが、今回は幸い徒歩ですし。
ちょっと離れた所に座っていた爺さんが、通ぶって「とろろ汁は刺身だの何だの余計な物が付いていないやつが一番」などと言っています。ふーん、貴方の胃袋では御櫃1杯も厳しいだろうが、御櫃2杯喰らう身としては、他にもおかずが無いととろろ汁が足りなくなるのだよ、と。

げっぷをしながら、再び歩き始めます。やがて着いたのは道の駅「宇津ノ谷峠」です。国道はそこからまっすぐトンネルに入るのですが、旧街道はここから峠越えです。木の生い茂る山道になります。木陰と木漏れ日、しんとした冷たい空気が気持ち良い!
峠を越えると再び道の駅。一服しようとすると……わっ! 4連ゴミ箱(缶、PET、燃えるごみ等の分別のため4個置いてあります)のそばに妙にリアルなカラスの模型が逆さ吊りになっています。しかも目が赤いし! しょっちゅうカラスがゴミをあさりに来るんだろうなあ。
しかし、衝撃的なのは、そのカラス模型を吊るしている竿の付け根です。同じ所に、「フードアクション・ニッポン」(食糧自給率アップ&残飯削減が目的のキャンペーンです)ののぼりが立っています。おいおい、これでは、何だか「食糧自給率アップのためにカラスを食べよう」みたいではないか!


休憩後、再び歩きます。ここらあたりが次の宿場・岡部宿です。府中〜丸子〜岡部は間隔が狭いんだなあ。岡部宿は結構元宿場町として頑張っている方だと思いました。柏屋歴史資料館なる場所もあります。柏屋とは、江戸時代の大旅籠で、その建物を資料館に作り替えた物です。中には入らず進みます。
それにしても、流石は東海エリア。ダイドードリンコの自販機がやたらと目に付きます。喉が渇いたので、自販機を見ると……仮面サイダーに、ウルトラコーラに、怪獣レモネード! 何だか面白そうなドリンクがあります。なるほど、仮面ライダーの駄洒落で仮面サイダー、赤と銀というカラーリングからウルトラコーラ……怪獣は何故レモネード!? バルタン星人の顔が大写しですが、レモネード関係無いやん! この反応までが狙いなら、作った人は天才です。
最もオーソドックスな仮面サイダーを購入。デザインは仮面ライダーの胴体を缶全体にプリントした物です。出て来た缶は、変身ベルトから放射状にカラフルな線が伸びています。あっ、変身中か! 缶の裏を見ると、全8種+ラッキー缶。で、何とこの「変身中」のデザインがラッキー缶のようです。また運の無駄遣いをしてしまったような気がする……否、ラッキー缶が出たという事は今日は運気が良い時期なのだと受け取っておきましょう。
 
(左)フードアクションとカラス。 (右)ラッキー缶。


更に進むと、「光泰寺という寺に、木喰仏が2体ある」との看板を発見。木喰(もくじき)とは、独特の木彫り仏像を彫ったという僧で、異形木彫り仏像では、「円空か木喰か」と並び称されています。早速行ってみました。

門は開放されていますが、戸は閉まっています。どら、と戸を引くと開きました。誰も居ません。「すいません」と声を発するも反応無し。ええい、勝手に上がってしまえ。靴を脱いで本堂に入り、先ずは本尊に浄財&線香を。左奥に目的の2体を発見。その内の一体は厳密には仏像ではなく、聖徳太子像なのですが、なかなか味のある像です。しばし眺めた後で戸を閉めて退出。その間、誰も現れず。これって、もし見付かっていたら無断で上がった事を怒られていたのだろうか。誰か居てくれえ!

更に街道を西へ。川に差し掛かると、土手の所で子供たちが遊んでいるのが見えました。一人が土手の上から古タイヤを転がし、もう一人が下でプラスチックのバットを持ち、タイヤを打ち返すという遊びです。現代っ子にしては、なかなかワイルドな遊びをしているじゃないか。面白そう。俺もやりてえなあ……だがしかし、いい年をした大人が小学生と遊んでいたら、警察を呼ばれそうなのでそのまま進みます。
やがて、夕焼け〜空が暗くなってきました。そろそろ潮時か。しかし、今回歩いている所は、鉄道路線から随分離れています。何とか駅まで向かわねば……東海道と東海道“線”が近くなるのが、次の宿場・藤枝宿です。暗い中を歩き、何とか藤枝駅に到着。在来線で静岡まで行って新幹線で帰京致しました。

東海道五十三次(10)歩行距離 : 20.1km(日本橋〜196.1km)

2010年3月21日(日)
(11)藤枝宿〜島田宿〜金谷宿〜日坂宿

春分の日の日曜日と、その振り替え休日である今日の一泊二日で、東海道歩きの続きに行って来ました。前回藤枝から帰ったので、そこまで電車移動してのスタートです。距離が延びて来て、新幹線が当たり前の世界になって来ました。もう安いビジネスホテル一泊より、そこまでの交通費の方が高くつきます。
静岡駅から東海道本線に乗り換えて、藤枝駅に到着。決して大きな駅ではありませんが、それなりに栄えた駅前です。駅から北上して東海道に復帰。雨が心配でしたが、途中ちょっとだけ小雨がぱらついた程度で、傘は不用でした。厄介だったのは強風です。帽子が何度か飛ばされてしまいました。
国道の歩道と国道脇の別の道を行ったり来たりする恰好で西へ西へと歩きます。

前回の東海道歩きの日誌にも書いたのですが、東海エリアの自動販売機は圧倒的にダイドードリンコが強いです。前回「仮面サイダー」でラッキー缶というデザインが出て来て、「運の無駄遣い」だと書いたのですが、また出てしまいました、運の無駄遣い! 喉が渇いたので、「仮面サイダー」「ウルトラコーラ」「怪獣レモネード」とある中の「怪獣」を買ってみました。あ! 今タイプミスをして気付いたのですが、何故レモネードなのかという理由って、「果汁」とかけているのでしょうか!? これにだけ果汁が入っています!
で、出て来たのは金色に輝くカネゴンの描かれた缶でした。裏を見ると、矢張りこれがラッキー缶でした。嗚呼、運の無駄遣い……否、物は考えようです。前回歩いた時から今回にかけ、運が長い好調期にあると考えましょう。カネゴンの力で良い事あると良いなあ……
  
↑ベトコンラーメン……危険な香りが……。/ 「完熟いちご」? /
 またしてもラッキー缶。

やがて「島田宿」に到着。この島田という地名……島田髷という髪型の名前の由来になっています。「しまだまげぇ?」とピンと来ないかも知れませんが、島田髷のバリエーションの一つの名称は聞いた事があるのではないでしょうか……「文金高島田」。和装の結婚式の新婦の髪型ですね。
この島田宿に続くのが、いわゆる「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の大井川。「大井川川越遺跡」というちょっとした観光施設がありました。江戸時代を偲ばせる木造の小屋が並びます。中には入れる物もあったので入ってみると、うおっ!! 暗がりに誰かが立っていると思ったら、「人足」の等身大人形でした。ふんどし&ちゃんちゃんこのみの男がそんな所に立って居たら、怖いですよね。
この「人足」というのは、人を乗せた駕籠を担いで川を渡したり、肩車をして川を渡したりという仕事をする人です。どこまで水に浸かるかで渡し賃が細かく決められていたそうです。
流石に今日びは、そんな仕事はありません。近くにある橋を渡りました。川は昨夜の雨で濁流です。こりゃあ仮に人足が居ても、「今日は無理でごんす!」とか言われそうです。
  


川を渡った所にあるのが「金谷宿」。金谷宿に来てすぐあるのが、大井川鐵道です。その車庫のある駅「新金谷駅」があります。ローカル線のこじんまりした駅なのですが、蒸気機関車が展示してある施設等があります。現役で走っているSL(C11)もあります。乗りたい気持ちは山々でしたが、スケジュールも良く分からず、いつかまたの機会にSL乗車目的で来ようと思います。
そこから更に西に進むと、アップダウンのある石畳です。登り坂は辛いには辛いのですが、足裏の負荷がかかる場所が違うので、痛んできていた足裏には好都合でした。
ある程度標高の高い位置まで来ると、一面の茶畑がありました。流石は茶どころ。濃緑のかまぼこ型が並んでいます。また、この辺りは「小夜の中山」という山で、それについての歌碑や句碑が道沿いに沢山ありました。
歌碑・句碑を見ながら歩いているとガサッと音がしたので見てみると、猫。しかし、どうも顔が……右目と左目の開き加減が違います。よく見ると、右前の額に大きな傷(もう塞がっていますが)があり、そのせいで皮膚が引っ張られてそういう目付きになっているようです。更に観察すると、体にも傷がいくつか……近付くと、警戒心鋭く一定の距離を保って、こちらを怨むような顔で見ています。目付きのせいでそう見えたのか? それとも傷は人間にやられたから人間を怨んでいるのか?
猫を尻目に進みます。視界が開けた場所に来ると、隣の山に木で書かれた「茶」の文字が。あれは分かり易くて良いなあ〜。
  
(左)大井川鐡道 (中)チラシ……これはアウトやろ! (右)茶の字の茶畑。

山を降りると、「日坂宿」です。辺りが暗くなってきましたが、ここは東海道でも3番目に小さな宿場だそうで、泊まれそうな所など全く見当たりません。このまま暗い中を次の掛川宿まで歩くのか? と、思って居るとバス停がありました。行先は掛川駅。そして、丁度そこにバスが来たので乗車し、掛川駅まで行って泊まりました。
翌日は、バスで引き返してのスタートです。この続きは次の日誌に。

東海道五十三次(11)歩行距離 : 19.0km(日本橋〜215.1km)。

2010年3月22日(月)
(12)日坂宿〜掛川宿〜袋井宿〜見附宿

21日の夜は掛川駅近くのビジネスホテルで一泊し、バスに乗って「日坂宿」まで逆戻りです。
日坂宿を出てすぐにあったのが、事任(ことのまま)八幡宮。御神籤を引いてみました。吉。正月に神田明神で引いたのも吉だったような……神意は変わらぬか。ダイドードリンコではラッキー缶が出るのになあ。

西へ西へと歩いて、出発から2時間程で「掛川宿」に到着。バスでは20分程度だったのになあ……今朝起きた場所に来るまで2時間掛かりました。
掛川には、山内一豊が城主になった事もある掛川城があります。そりゃあ、寄るしかあるまい。小ぶりな城です。しかし、その敷地内には桜が咲いており、青空・桜・白い城が美しい眺めでした。天守閣に入り、掛川城御殿という場所を見学してから、再び歩き出しました。

天竜浜名湖鉄道(以前、乗った事があります)の駅のそばを通り、西へ西へ。ふと、美味そうな物が目に入りました。「かりんとう饅頭」という看板をデカデカと掲げた店です。「かりんとう饅頭」とは何ぞ? 一つ買ってみました。黒糖を使った生地に甘さ控えめのこし餡が入っています。それを揚げて表面をカリッカリにした物です。ん〜ん、美味!

甘い物を食べて疲れを癒して、また歩き始めます。暫く進むと、旧東海道は国道を離れて松並木に入ります。この日は晴れていたので、日差しが強く、松の木陰が涼しいです。暑さに対する松の木陰を、松尾芭蕉は俳諧で「命なり」と詠んでいます。

そのまま道なりに進んで、「袋井宿」へ到着。「東海道どまん中」という表記が目立ちます。ここが東海道の丁度中間地点。おお、ようやく半分まで来たか。
「どまん中茶屋」なんて所があったので、そこで休憩しようと思ったら、年寄のたまり場になっていました。ん〜、気安く休みがたし。「どまん中ダンス教室」なんてのもありました。「東海道のどまん中にある」という事は観光客にとってはアピールになりますが、地場の人にとってはどうなんでしょう?近所の人は皆「どまん中」に住んでいるわけで、「どまん中」を標榜する事が、何かプラスになるのか? まあ、商売の為ではなく、純粋に東海道のどまん中にある事を誇りに思っているのでしょう。
どまん中茶屋を諦めて、喫茶店に入りました。おっ! 壁に貼ってあるメニューに「小倉トースト」の文字が! これ、名古屋喫茶御得意のつぶ餡を乗せたトーストです。小倉トースト文化圏は遠江にも拡大しているのですね。
 
「東海道どまん中」。 ツタヤの前にあった、妙にリアルな鶏。


休憩を終え、更に西へ。江戸時代の道、明治時代の道という上り坂があり、それを登って高台を通りゆるゆると下ると、磐田市に入ります。
再び東海道に合流するあたりに、「遠州鈴ヶ森刑場跡」がありました。小ぢんまりしていますが、「鈴ヶ森刑場」と言えば、東京の平和島あたりを通った時にありました。そうか、その遠州バージョンなのだな。
木戸跡があり、そこからが「見附宿」です。途中で左に折れ、JR磐田駅前に到着。時刻は17:00。今回はここまでで打ち切り、新幹線で帰りました。次回は磐田駅スタートです。

東海道五十三次(12)歩行距離 : 22.3km(日本橋〜237.4km)

2010年4月30日(金)
(13)見附宿〜濱松宿〜JR高塚駅

昨秋に開始した東海道歩きですが、今回はGWを利用して、4月30日(有休)、5月1日、2日の三日間歩きました。先ずは、その1日目から。今回は全行程好天に恵まれたので助かりました。
前回が見附宿(JR磐田駅あたり)までだったので、今回そこまで新幹線&JR在来線を使ってそこまで行ってのスタートです。
磐田駅で降りると、先ずはジュビロ磐田の鳥のキャラが出迎えてくれます。あ、女バージョンも居たんだ。それを横目に左に曲がり、割と細い道を進み、国道一号線と並行したり合流したりしながら進みます。なかなかB級センス溢れる看板や店構えがちらほら。「日本初! マンガ食堂喫茶」とか、許可を取っているか疑わしいキャラクターの使用とか……
  
(左)絵は上手いが…… (中)出た! (右)日本初!

道中、米屋のおにぎり屋というのがあったので、おやつ代わりに購入。そこで面白い物を見付けました。「おもろカレー」マップ……おもろ? オモロー? ナベアツ転じて圧力鍋調理のカレーとか? この辺りの方言で、豚足の事を「おもろ」というそうです。で、カレーの具にぴったりというわけで、街のB級グルメとしてPRしているとか。昼食はそのマップの中の一軒で食べようと思い、ちょっとルートを外れて行ってみました。……が、ランチメニューに肝心の「おもろカレー」が無い! おいおい、もうやめちゃったのかよ! 本当に美味しい物であれば、根気強く続ければ本当に他所者にも伝わる名物になるのに! もう口がカレーになっていたので、一応「おもろ」ではないカレーを食べました。
昼食後、天竜川に掛かる天竜川橋を渡ります。本当は青い鉄骨の古めかしい方の橋を渡りたかったのですが、車の通りがそこそこ多いのに歩道が無いので、すぐ目の前の新天竜川橋を渡りました。天竜川は昔は渡し船で、その後木橋、鉄橋になったそうです。渡ってすぐの所に、その歴史を記した看板がありました。川べりに「テロ警戒中」という看板があり、誰も居ない小屋がありました……こんな小屋でテロを警戒出来るのか!? そもそも、こんな川から発生するテロとは? それ以前に、その小屋は元々、豪雨等で川が荒れた時にその様子を見るための小屋ではないのか……
 
藤棚 & テロ警戒中。


更に進み、県道312号線に合流すると、程無く松並木になりました。松並木を歩いて居ると東海道を歩いているという感じがして来ます。植物つながりで言えば、丁度藤の花がシーズンなので、綺麗な藤棚があちこちで見られました。私は昔、これは葡萄の花だと思っていました。ルックスのみでそう思っていたのですが、同じように思っていた人は結構居るのではないかと思うのですが……

寺があったので様子を見てみると、羅漢像らしき小さな坊主頭の石像があちこちに……どまん中に立って居たり、木の陰に隠れていたり……これは、ウォーリーみたいに「羅漢を探せ!」なのか?
しばらく行くと、ジグソーパズルの専門店がありました。ん〜、ジグソーパズルとそれ用の額縁だけを商っていて、果たして商売になるのか? 否、なるからこうして立っているわけで。旅の途中ゆえ、荷物が増えるのを避けたかったので買いませんでしたが、専門店なんかがあると、ちょっと寄ってみたくなります。
 
パズル専門店 & そう略すか……


やがて浜松駅近くに到着。濱松宿です。流石はヤマハの街。駅の傍に楽器博物館がありました。寄り道。世界のあちこちの楽器が置いてあります。なかなか面白い。文化人類学と楽器の成り立ちの繋がりが見えて来ます。ピアノの前身であるチェンバロや、弦の配し方が違う多数の鍵盤楽器もありました。私は今まで、チェンバロの音は聴いた事があったのですが、見た事はなく、いわゆるもっとバリバリの弦楽器の形をしていると思い込んで居ました。見た目はピアノなんですね〜。結構じっくり見てしまい、時間を食いました。
浜松からは国道257号線を歩きます。祭着屋がありました。結構客が入っているではないか。あっ、大統領、こんな所で何を!! オバマ顔のマネキンまで法被を着ています。否、オバマよりも、そのもの真似をしているノッチに似ているなあ……
祭着を売る店がこんなに賑わっているのは、5月3日〜5日に祭りがあるからです。何でも、神輿というか山車というかの事を「屋台」というそうで、各町がその「屋台」を出して練り歩く祭だそうです。今回はこのまま通り過ぎてしまいますが、別の機会に来てみるか。
JRの浜松駅の隣、高塚駅あたりまで着た頃で時刻は18:00頃。まだ暗くはないが、このまま舞坂宿まで強行しても、暗くなっては何も見えないしなあ……電車に乗り、浜松に引き返して泊まる事にしました。駅のそばをうろうろし、ビジネスホテルに電話をかけ宿泊。
折角の浜松なので鰻を食べました。うな重定食3000円くらい。美味。翌日の行程は次の日誌に。
 
祭着屋のオバマ & うな重定食。


東海道五十三次(13)歩行距離 : 21.4km(日本橋〜258.8km)

2010年5月1日(土)
(14)JR高塚駅〜舞坂宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿

浜松では、鰻を食べた後にちょっと飲みに行って情報収集をしました。「東海道〜(13)」で、浜松祭についてどういう祭なのかを書きましたが、これもそこで聞いた話の受け売りです。
浜松駅から電車で高塚駅に向かい、そこから歩き始めます。同じく国道257沿いなのですが、途中で道を逸れ、JRに並行する恰好になりました。浜名湖が近付いてきた辺りに松並木があり、この辺りから舞坂宿になります。松並木には、広重の東海道五十三次の浮世絵を銅版にした物が並んで居ました。舞坂宿の物だけが大きくなっています。
浜名湖の傍には、やはり鰻やすっぽんの養殖池がありました。ちょっと様子を見に行ってみたのですが、田んぼの様に四角く区切られた池があり、中には入り込んで何らかの作業をしている人も居ました。しかし、鰻の姿は見えず……池にうじゃうじゃ居る様を期待していたのですが、時期ではないのかなあ?
国道一号線に合流し、浜名湖の南側を歩きます。その辺りには弁天島という干潟のような島があります。こちらに向かって赤い鳥居が立っています。国道沿いにはホテルやマンションが並び、ちょっとしたリゾート地といった風情です。潮干狩りの船があり、弁天島に渡って潮干狩りをする客が多数居ました。鳥居のある干潟に向かって大勢の人々が船を待つ姿は、日本語が読めない人に、「あれは、あの鳥居のある島で修業をする人たちだ」と言ったらもっともらしく聞こえてしまいそうな程でした。
弁天島リゾートエリアを抜けて橋を渡っていると、潮干狩りをしている人々が沢山見えました。
昼食は昨晩に続いて鰻。今度はうな丼定食にしました。同じく3000円くらい。贅沢やな〜!! 本当は、浜名湖料理という店に入ったので、他の地魚なんかを食べたかったのですが、それらはもっと高かったのです……
  
潮干狩客 & 浜名湖鰻 & これは? 珈琲城?(営業はしていないようでした)。


浜名湖に掛かった長い橋を越えると、新居宿になります。新居には関所跡がありました。日本で唯一当時の建物が残っている関所です。そのすぐそばには旅籠紀伊國屋があり、いずれも中に入って見られました(有料)。当時のトイレ(木製)なんかも復元されています。
尚、その紀伊國屋の風呂には、由美かおるの写真とサインがありました。水戸黄門のロケで使ったのでしょうか? 水戸黄門なんてもう随分長い事見ていませんが、水戸黄門では、入浴シーンを200回もやっているそうです。日本一のセクシー女優……いったい今いくつ? 実はもう還暦近いそうです。スリーサイズはデビュー当時から殆ど変わっていないとか……魔女!?
 
関所跡 & 由美かおるが入った風呂。


海沿いに近い道を歩いて一号線を外れて潮見坂という坂を登ります。登って振り帰ると、左右を切り取られた恰好とは言え、太平洋が見えて綺麗な場所です。成程、潮を見る坂か。坂を登った上の辺りが白須賀宿。案内マップを見ると、「袈裟斬り地蔵」なる非常に興味を惹かれる物があるようなのですが、見つけられず断念。しかし、これはこれ目的で見に来てもいいなあ……
その代わりに十王堂を見ました。十王とは、閻魔王を中心とした地獄の審判10人を指します。極彩色に塗られた比較的新しい物でした。入口の硝子戸に妙な物があります。スーパー等にある白いレジ袋を折って長方形にした物の中央に穴が開いており、赤いゴムボールを押し込んでテープで留めています。これは何ぞ? 何かのまじないなのでしょうか? それの横をふと見ると、ガラス戸には「新年明けまして御目出度う御座います」の文字……正月から変えていないのかよ……あ! さっきのオブジェは日の丸? え〜!? 何て荒い作りなんだ!
  
汐見坂 & 十王堂 & 日の丸?


再び一号線に合流すると時刻は17時頃。通勤帰りと思しき車が沢山走っています。この辺りで遠江の国(静岡県西部)が終わり、三河の国(愛知県南東部)入りです。そのまま国道沿いを歩いて新幹線を潜った辺りにあるのが二川宿。随分狭い道なのに、先程の国道と同じくらい混んで居ます。朝夕の一時的なものなのだとは思いますが……歩いた方が早いくらい。とおもったら、何やら消防車が……火事が起きて居ました。もう消し止められて居ましたが、木造家屋がほぼ全焼の黒焦げ。混んでいたのはこのせいもあるのか……
二日目はここまでとし、電車に乗ってちょっと先の豊橋駅まで行って宿泊。名物の「菜めし田楽」を食べました。これは、大根の葉っぱを刻んだ物を炊き込んだ「菜めし」と豆腐の味噌田楽のセットです。素朴な味ですが決して不味くはなく、なかなかヘルシーな名物です。
 
火事 & 菜飯田楽。

東海道五十三次(14)歩行距離 : 23.9km(日本橋〜282.7km)

2012年5月2日(日)
(15)二川宿〜吉田宿〜御宿〜赤坂宿〜名電山中駅

東海道歩きの続きです。豊橋駅前のビジネスホテルで一泊したのですが、夜中になっても何やら外が騒々しい……そう言えば、駅前に若い奴等が音楽を鳴らしてダンスをしていました。あいつらかなあ……夕方くらいは良いが、22時とか23時とかそんな時間までとは。駅なり交番なりは、何もしないのかよ……こんな田舎でしか騒げない小物なんぞ、恐るるに足らんだろうに。
翌朝、豊橋から二川駅まで戻り、再開です。程無く、火打坂という緩やかな坂が始まりました。二川宿では前日に火災が発生しています。そのすぐ近くに火打坂とは。ブラックなネーミングです。
今回は朝食抜きでの素泊まりだったので、朝食代わりに喫茶店モーニングを。名古屋を中心とした愛知の喫茶店はモーニングのサービスが良いです。飲み物から追加料金無しで、半切れのトースト、卵、サラダ、デザートが付きました。
しばらく進み、国道一号線の合流。道なりに進みます。やがて、路面電車が見えて来ました。前夜の豊橋駅前を中心に、豊橋市街には路面電車が走っています。豊橋市街辺り=吉田宿へと到着です。一先ず、吉田城址に行ってみました。周辺が公園として整備されています。元々天守閣は無い城だそうで、鉄櫓という城形状の物見台のような物が復元されていました。元々は天守閣のあるべき場所に屋敷があり、そこから四隅にこうした櫓があったそうです。
城址の後は丁度昼時。何ぞ名物でも食べようと思ったのですが、目に留まるのは、昨夜も食べた「菜めし田楽」くらい。しばらく行くと、蕎麦やきし麺の店を見付けたのですが、店の外まで待ちが出ている! 大人気です。上には「海老くずし」なる文字。名物っぽい……入口にあった蝋細工を見ると、冷やしきし麺に海老天が乗った物のようです。しかし、待つのはなあ……近場の中華料理屋で適当に済ませました。
  
路面電車 & 吉田城址 & 海老くずし。

豊川の橋を渡るあたりで吉田宿は終了。豊川では、川の中に金属製のザルのような物を使って漁らしきものをしている人々が居ました。ザルで川底をさらって、ジャカジャカと洗っています。しじみとか貝の類が獲れるのでしょうか。
以降、国道一号線に並行する細い道を進みます。しばらく行くと、巨大な赤い鳥居。何ぞ由緒ある神社かと思ったのですが、鳥居の裏を見ると、平成17年建立の文字……随分新しいではないか。いや、古ければ有難いというわけではないのですがね。その鳥居の先は稲荷神社でした。神社よりも面白いと思ったのは、その近くの寺。何やら小型石仏が沢山ありました。そしてそれらが、地蔵菩薩と観音菩薩が対になったセットの集団だったのです。観音(中には観音ではなく、阿弥陀如来等も)には色々なバリエーションがあるのですが、必ず赤い頭巾の地蔵とのセットでした。デュエット仏!? (修正:この地蔵菩薩だと思ったのは、弘法大師だったようです)
やがて、御油宿へと到着。松並木がありました。やたらと、倒木に注意とあるのが心配な松並木でしたが……
  
シジミ漁? & デュエット仏 & クラシカルなマシンとうば車看板。

松並木を越えると、程無く赤坂宿。このあたりは宿場の間隔が短いです。赤坂宿から更に進むと、宝蔵寺という寺があります。松平家の菩提寺の一つのようで、奥には東照宮もありました。また、ここには、新撰組局長・近藤勇の首塚があります。胸像と誠の旗がありました。
そこから次の藤川宿まで行こうと思ったのですが、少しずつ日が暮れてきていたので、ここいらで断念。竹千代温泉という温泉に浸かってから、名電山中駅という駅から豊橋に引き返し、帰路に就きました。
尚、この竹千代温泉なのですが、やたらめったら石像が置いてあります。動物とか、金剛力士とか、大黒天とか、一休さん(?)とか……その一休さんと称する小坊主が眠っている像の横には、「一休さんの頭をなでた手で、自分の頭をなでるとボケ防止の御利益があります」とまで書いてあります。おいおい、やりたい放題やないか!
  
宿場にあった奇妙な焼物群 & 近藤勇首塚 & 一休さんのボケ封じ。


東海道五十三次(15)歩行距離 : 23.1km(日本橋〜305.8km)

2010年7月17日(土)
(16)名電山中駅〜藤川宿〜岡崎宿〜池鯉鮒宿

前回歩いたのはGWで2泊3日。今回も2泊3日で歩きました。今回は、赤坂宿と藤川宿の間の名電山中駅からです。新幹線で豊橋に向かい、名鉄に乗り換えてからのスタートです。
しかし、出鼻を挫かれたのが、豊橋に止まるひかりの少なさでした。時刻表を見ずに出掛けたので、東京駅でいきなり1時間近く待つ事になってしまいました。名電山中駅に着いたのはもう昼。太陽は燦々と照っており、歩きだしたら程無く滝のような汗が……早くも今回は前途多難の予感。
国道1号線の歩道から時折脇の細道に別れながら西へ。3km程歩けばもう「藤川宿」です。藤川宿の西の端入口の手前には、牛乳屋の建物があり、そこには「栄養しっかり この1本ではつらつスタート 名古屋ウルトラ牛乳」の古くて大きな看板がありました。「ウルトラ牛乳」!? 一体普通の牛乳と何が違うのか!? 調べてみると、UHT牛乳(超高温殺菌牛乳)の事でした。この「超」=「ウルトラ」を取ってウルトラ牛乳、と。で、それは130℃2秒殺菌の様子。これは寧ろ、今の日本には最も多く流通している牛乳です。その黎明期に出来た看板か。


藤川宿で気になる寺を発見。明星院というその寺は、「片目不動尊」の幟がありました。興味深い。敷地に入ったのですが、片目不動尊は秘仏だそうで拝めず……変り物の仏像というのは興味を惹かれるのですが、秘仏って事が多いのです。その代わり、役行者や弘法大師の石像がありました。そのすぐ近くには、称名寺という寺があり、こちらには本堂の縁側(?)に象の像が置いてありました(比較的新しい)。こんな所に置いてあって、何に使うのだろうか……
そのまま宿場町を進むと、本陣跡と脇本陣跡が資料館になっていました。小さな小屋なのですが、藤川宿のジオラマがあります。誰も居らず、勝手に電源入れて勝手にボタンを押して聴け、というシステムでした。
更に、藤川宿出口近くの田んぼで奇妙な案山子を発見。何やらぷらぷらしています。良く見ると、ピエロの人形が帽子の先から吊るされています。単品で見ると可愛いのですが、風に揺られてたまにこちら見ている様は怖い!! ピエロには何処となく怖さが潜んでいます。そう言えば、小学生の頃に、保育園にマクドナルドのドナルドが来た事があるのですが、あの時は泣き叫んでいる子も居たなあ……ドナルドもピエロの一種と言えばそうなのだと思います。
  
ウルトラ牛乳 & 片目不動尊 & ジオラマ。

藤川宿を出てしばらく歩くと、「藤川常設射撃場」の看板があり、近くで銃声がしています。どんなもんだろうと、山道をちょっと登るとありました。猟銃の練習場のようです。撃っている様子を見たかったのですが、「関係者立ち入り禁止」の文字があり、近寄りがたい雰囲気だったので、それ以上は近付かず、街道に復帰。この辺りから、松並木があります。松並木を越えて国道に合流。炎天下の国道歩道は辛い。消防の溜池に居たメダカや鶏小屋の鶏を見て心を癒しながら歩きました。
さて、国道を歩いていて気になったのは、直径20〜30センチ程の黒いスポンジ状の球です。私は二度見付けました。歩道脇に、「岡崎市」と書かれたカラーコーンとともに備え付けてあります。軸があって、電源コードも伸びているので、恐らくは集音器。国道の騒音でも測定しているのでしょうか。
  射撃場 & 鶏小屋 & 集音機。

東名高速の岡崎ICのあたりを潜り、更に進むと、「岡崎宿」の入り口です。ここは「岡崎二十七曲がり」と言われる徳川家康の居城だった岡崎城の城下町です。ここでガイドブックを見て、衝撃。岡崎ICの辺りに、大岡越前守陣屋跡があったのに、スルーしていた! あの大岡裁きの大岡越前です。ここにもにも寄りたかった! 二十七曲がりと言っても、実際には27も曲がっていませんでした。少なくとも現在のルートは。所々にベンチがあり、街道歩きの旅人に休憩所を提供してくれています。そのベンチには「風紀上ここで寝ないでください」の文字。歩き疲れた人か、酔っ払いか、ここで寝た人が居たんだろうなあ……
二十七曲がりの終点は岡崎城公園です。天守閣は、明治時代に取り壊されましたが、昭和34年に復元されています。折角なので入場料を天守閣にも払って入りました。うむー、石垣の足元にある亀の石像が何だか卑猥です。
岡崎と言えば、マルヤやカネクの八丁味噌。岡崎城公園の西には、八丁蔵通りという八丁味噌の蔵の通りがありました。NHKのテレビ小説(2006年「純情きらり」)のロケ地にもなっていて、宮崎あおいの手形がありました。
岡崎宿を過ぎ、矢作橋を渡って更に西へ。誓願寺という寺があり、そこは幼稚園を兼ねて居ました。街道沿いには、神社仏閣が多く、且つ保育園・幼稚園を開いている所も多いです。さて、その誓願時の入り口なのですが、狙ってやったのか偶然なのかは分かりませんが、アンパンマンとカレーパンマンがそれこそ仁王のように阿形と吽形で門を両脇から守って居ます。ファンシー仁王です。
西日を真正面に受けながら西へ。しばらくは国道沿いを歩き、松並木の始まる辺りで国道を離れ、進みます。日が長い時期とはいえ、空が赤くなってからは存外早く暗くなります。
  
岡崎城 & 八丁蔵通り & 阿形アンパンマンと吽形カレーパンマン。

何とか暗い中を「池鯉鮒(知立)宿」入口松並木まで到着。松並木が終わり国道とクロスしたあたりに丁度ビジネスホテル発見。早速電話して泊まれるかどうかを訊くと、残念ながら満室との事! ガーン。時刻はもう20時。どうしよう……
何はともあれ、駅の近くまで歩くかというわけで、名鉄の知立駅付近まで歩きました。駅前には商店街があり、決して都会ではないですが思っていたよりは栄えて居て、線路沿いにビジネスホテルを発見。最悪は岡崎まで電車で戻る事も考えていたので、幸いでした。
それにしても真夏の炎天下に何時間も歩くと汗が凄いもので、Tシャツは塩を吹いて居ました。休日でもあり髭も剃っていないので、殆ど乞食と変わりません……電話でなくていきなりフロントに突入してたら、満室と嘘を吐かれていたかも!?

東海道五十三次(16)歩行距離 : 25.5km(日本橋〜331.3km)

2010年7月18日(日)
(17)池鯉鮒宿〜鳴海宿〜宮宿

さて、東海道歩きも始めてから合計17日目の7月18日です。前日に泊まった知立駅前のビジネスホテルを出発して北東に歩き、街道に復帰します。この朝は、曇っているせいか、比較的涼しかったです。街道復帰間際に、奇妙な木造の仏像を見付けました。善光寺という小さな寺の前に並んだそれらには、味があるというか、癖があるというか、なかなか奇妙な仏像です。それを眺めながら住宅街になっている細い旧道を進むと、またまた変な像がありました。今度は仏像ではありません。ヒーロー然とした青い全身タイツに、菱形の頭をした何やら不気味な像です。そこは算盤教室でした。算盤教室の客寄せのキャラクターなのです。頭の菱形は、算盤の珠というわけで、サンサンマンという名前だそうです。しかし、安斎肇が書いたかのようなヘタうま系のデザインで、造りの粗い像なので不気味です。良く見ると、股間の所がやたらと傷んでいます。嗚呼、いつの時代も悪ガキに狙われるポイントは変わらないのかあ……
今は城は跡形も無い知立古城址公園の前を通って、更に進み、太い道を渡ると知立神社です。GWに行った出雲大社周辺にあった神社のように太い注連縄がありました。出雲大社の主祭神である大国主神は国津神です。もしかしたら、国津神系の注連縄の形なのでしょうか? 知立神社の隣には知立公園には、カキツバタが植わっていました。伊勢物語で在原業平がカキツバタの歌(から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思う。あいおうえお作文です)を詠んでいるのも現在の知立市のあたりですし、その関係で植えているようです。何て事を思っていたら、小雨がパラついてきました。まずい……今回は折り畳み傘を持って来ていないのです。コンビニがあれば傘を買おうと思い、足を速めました。
流汗不動明王という惹かれる寺があったのですが、小さな滝のような場所に小ぶりの不動明王が置いてあるだけでした。跡で調べると、本物は秘仏で、人間サイズなのだとか。
  
奇妙な仏像 & サンサンマン & 流汗不動。

小雨が降ったり止んだりで、本降りが来そうな気配はないので、そのまま進み、国道一号線に合流。標識を見ると、「刈谷市」の文字。知立市が終わり、刈谷市に入りました。そこからは、国道の歩道を歩いたり、国道に沿った脇の細い道を歩いたりが続きます。
細い道を歩いて居ると、「いもかわうどん」と書かれた看板のある祠のような物がありました。いもかわうどんとは? うどんと言うからにはうどんなのでしょう。何でも、街道沿いの有名うどん店が昔あった場所だそうです。この「いもかわうどん」が名古屋で「きしめん」になり、関東で「ひもかわうどん」(北関東にある、薄べったい板状のうどんです)になったのだそうです。
しばらく進んで名鉄富士松駅のそばを通り、また国道とくっ付いたり離れたりの道を進みます。雨は結局本降りになることなく上がりました。しかし、喜ぶべきか嘆くべきか、晴れて来ました。炎天下の始まりです。国道沿いを更に進むと、中京競馬場付近まで来ました。巨大な蹄鉄の上に馬の像が乗った看板があります。この辺りで左に折れると、桶狭間古戦場があります。しかし、兵どもが夢の跡、古戦場址は狭い公園でした。目の前には、高徳院という寺があります。桶狭間の戦死者を弔っての寺だとか。ここでは「きゅうり加持祈祷会」なる催しがあるそうです。胡瓜を奉納しての健康祈願のようです。何か言われがあるのだろうな、と思ったら、弘法大師のエピソードの一つに、胡瓜を奉献して祈祷すると人が快癒した話があったそうです。
  
中京競馬場看板 & 桶狭間古戦場 & きゅうり加持祈祷会

ここまでしばらくは国道の左側をくっ付いたり離れたりで歩いて居たのですが、右側に渡る所に着きました。間の宿「有松」です。五十三次には数えられていないのですが、古い街並みが残っていて、味わい深い通りです。私が見ながら歩いている東海道歩きのガイドブックにも、「ぞくぞくするような家並みが続く」と書かれています。「有松絞り」という絞り染めが有名で、今でも伝統工芸として残っていて、有松鳴海絞り会館という場所では、服などを販売しています。うーむ、流石に結構な値段がする。よほど気に入れば買うが、シャツ一枚に2万円はなあ……そばにあった寿限無茶屋という店で昼食に冷やしうどんを食べました。店構えがいかにも宿場町っぽくて、何気なく入ったのですが、なかなかの美味。サイン色紙が沢山貼ってありました。その後で有松山車会館という場所を見学。カラクリ仕掛けが自慢の山車が仕舞ってありました。祭りの時には、この山車が練り歩き、カラクリで筆で文字を書くのだとかで、そのビデオを見せて貰いました。カラクリ人形って、非常に不気味です。が、これもなかなか私好み。

有松を抜けてしばらく進むと、「鳴海宿」に到着です。ここいらにも街道沿いに寺や神社が沢山ありました。矢張り、東海道は昔からある道ですから、何処へ行っても寺社が多いのです。その中に、大林山浄泉寺という寺があり、「宮城野部屋」「白鵬関」という大きな幟がありました。国技館にあるようなカラフルな幟です。そう言えば、丁度名古屋場所が行われている時期でした。という事は、もしかして白鵬はここで寝泊まりして居るのか? ちょっと石段を登ってみました。すると、門の前に「報道関係及び一般の稽古見学お断り致します」の文字。胸躍らせてちょっと覗いてみると、一人のおっさんがパンツ一丁で芝生の上に寝転がっていました。ガーン、こんな物を胸躍らせて見ようとする羽目になるなんて。
炎天下の中を歩き続けているので汗だくです。木がある寺や神社がある度に、木陰で休憩しながら進みました。と、この辺りで気付いた事が。鳴海宿に入った辺りから、一人の御婦人と私が歩いて抜きつ抜かれつしているのです。歩行速度は私の方が早いのですが、暑がりなので、木陰に入って休む頻度が私の方が多いので、その間に追い越されるわけです。ふむー、私と同じく、東海道歩き人と見た。声をかけようかとも思ったのですが、やめておきました。人に大した理由も無く声を掛けるには今の私は汗だく過ぎる。
  
あいの宿「有松」 & 有松山車 & 名古屋場所・白鵬関 。

そうこうしながら進んで行くと、辺りが都市化してきました。名古屋に着いたわけです。道幅も一気に広がりました。熱田神宮周辺が「宮宿」です。この「宮」は神宮の宮なわけです。熱田神宮のそばを通って、旧道を直進すると「ほうろく地蔵」という地蔵があり、そこを左に曲がると七里の渡しです。昔はここから三重県の桑名まで渡し船があったのですが、今はその跡地が公園になっているのみ。東海道歩きの道はここで途切れてしまいます。だがしかし、ここで諦めるはまだ早い。きちんと陸路の旧道もあるのです。「佐屋街道」という道です。先程の「ほうろく地蔵」を右に行くと佐屋街道に繋がります。熱田神宮を参拝し、鶏が放し飼いになっているのに驚きつつ、広大な神社敷地にある宮きしめんを食べました(頼んじゃってから昼と同じような物を食べてしまった事に気付き、後悔)。佐屋街道の始まる金山まで北上して、ビジネスホテルを確保して一泊して、休息ならぬ休足です。
  
七里の渡し & 熱田神宮の放し飼い鶏 & 宮のきしめん。

東海道五十三次(17)歩行距離:17.5km(日本橋〜348.8km)

2010年7月19日(月)
(18)(佐屋街道)岩塚宿〜万場宿〜神守宿〜津島神社

続いて、7月19日歩行分です。厳密に言うと、これは東海道ではありません。東海道で七里の渡しを迂回して歩いて通る陸路「佐屋街道」です。
私が頼みの綱にしているガイドブックにも一切道は載っていません。道は、道標や案内板、携帯で見る佐屋街道を歩いた誰かのブログ等で調べつつ進みます。随分道に迷いました。如何に詳細まで書いていない物でも、地図は必需品だなあ、と。

金山のビジネスホテルを出て、北西に進みます。やがて交差点に石の道標が姿を現します。四角柱のそれは東西南北に面していて、それぞれの面に、行き先が書かれています。
「東 右 なこや 木曽 海道」「西 右 宮海道 左 なこや道」「南 さや海道 津しま道」「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」とあります。私が目指すのは、津島方面の佐屋街道なので、南側から見て、ここで左、即ち西に行くというわけです。
歩道には、東海道中膝栗毛のやじさんときたさんをキャラクター化したプリントがあり、「佐屋街道」と書いてあります。所々に、石柱の「佐屋街道」という道標等を見ながら、旧道を歩きます。それにして……歩道にやたらとゴミ袋が置いてある! 月曜日はゴミの日なのでしょうか……人通りの少ない道に、ゴミ袋ばかりがあります。
信号待ちをした時に押しボタンの所を見ると、フクロウのキャラクターが付いたボタンでした。愛知県警のキャラクターなのだろうか……よく、警察のキャラクター=ピーポ君だと思っている人が居ますが、奴は警視庁(いわば、東京都警)のキャラクターであり、各都道府県警に別々のキャラクターが居るのです。その嘴を開いた中にボタンがあります。鳥の喉に指を捻じ込んで信号を渡るわけか……おっと、そのキャラクターの胸元を見ると「コノハけいぶ」とあります。おおっと、侮ってはいけません。警部殿でしたか。
  
佐屋街道 & 「ひち」て! & コノハ警部。


この日も非常に暑かったので、神社や寺の木陰で休みながらの歩行です。ふと気になったのは、このあたりの神社には、手前にステージのような物があり、本殿と思しき場所は祠のみというパターンが随分と目に付いたという事で。ステージのような所では、昔は神楽でもやったのでしょう。地域地域で特徴があって面白い物です。
そのまま歩道があったりなかったりという道を歩き続けます。うーむ、マイナーな道のせいか、どうも東海道よりも街道という自覚が薄いような……この辺りは既に「岩塚宿」に差しかかっているのですが、それを思わせる物が少ないです。所々に旧街道沿いらしさのある家があるくらいです。
やがて、庄内川という川に突き当たります。そのそばには、七所神社という大き目の神社がありました。特徴的なのは、鳥居をくぐった先に本殿を隠すかのような衝立があるという点でした。あの、日本家屋の豪邸なんかで、玄関に虎の描かれた衝立なんかがありますが、あんな感じで石作りの衝立があるのです。この傾向は此処以降の神社で度々見掛けました。先程のステージ同様、このあたりの建築様式のようです。
川に掛かる大きな橋を渡ると、「万場宿」です。川を隔てて二つの宿場があるのです。万場宿側には渡し場跡のような所がありました。万場宿にも寺や神社が多かったです。しかも、大きな石灯籠のある、随分立派な寺(光圓寺)まであります。
高速道路沿いまで来て、しばらく行って、携帯で見ている誰かのブログとどうも様子が違う事に気が付きました。道を間違えたようです。道を補正するように正規ルートに近付く方向で、何とか持ち直しました。こういう時には汗が暑さ以上に流れます。
しばらくすると、旧七宝町、現あま市です。七宝町の地名の由来は矢張り七宝焼き。七宝焼き原産地という道標石碑があります。しかも、ローマ字でSHIPPOYAKIとまで彫られています。明治時代に建てられた物で、外国人がここまで七宝焼きの買い付けにきていた名残だそうです。この辺りで、適当な店で昼食を取って、更に進みます。このあたりもなかなかB級看板が多くて炎天下の中、私には一服の清涼剤になります。
  
目隠しのある神社 & 石灯籠の立派な寺 & 七宝焼原産地・遠島。

やがて、ずいぶん立派な木が生えている一里塚が見えて来ました。神守の一里塚とありました。この辺りが、「神守宿」というわけです。ここまで歩いて来た片側一車線の道路から、脇に曲がって行くと、所々に宿場情緒のある家が並んでいました。この日誌の冒頭に書いた「佐屋街道」のプリントはもうありません。おいおい、全ルート上にやっておいてくれよう……
こうなっては、片側一車線の道に戻って取り敢えず津島神社を目指すしかないか、と。そのまま西へ西へ。佐屋街道も地図をちゃんと用意しておくべきだったか。しばらく進むと「埋田」という交差点に辿り着きました。先程から時々形態で見てヒントにしているブログには「埋田追分」という表記がありました。成程、この辺りにそれがありそうだぞ、と。運よく近場で見付ける事が出来ました。とは言っても、石灯籠と道標があるだけなのですがね。しかし、佐屋街道に入ってからはなかなか史跡に巡り合わない状態だったので、これで充分なのです。この旧街道を歩いている感が重要なのです。
更に西へ進み、津島神社へ。ここも先程描いた通り、衝立のある作りの神社です。件のブログによると、この辺りの神社の代表格である津島神社にならって他の神社も衝立形式なのだとか。主祭神は素戔嗚尊(スサノオのミコト)ですが、従来は牛頭天王(ゴズテンノウ)が祀られてたそうです。元々、神仏習合で同一視されたようです。いずれにせよ、荒ぶる神の類です。
 
埋田追分 & 津島神社。

今回は、ここで打ち止め。佐屋街道を制覇しようと思っていたのですが、3日間の疲れがあり、何よりその翌日は仕事ですから、大事を取って帰りました。
この3日間の歩行はあまりに暑く、3日ともTシャツが塩を吹いてしまいました。特に、ビジネスホテルにチェックインしてすぐにシャワーと着替えが出来る1日目、2日目はまだしも、この状態で在来線&新幹線で帰るのは辛かった……そう言えば、汗が塩になると言えば、私は昔、とんでもない勘違いをしていた事があります。というのは、「ガンジーの塩の行進」です。あれは、イギリスが塩の販売を取り締まっていたのに反対して、海まで塩を作りに行った更新なのですが、インド=暑いという偏見のせいで、汗をかいて塩になった物を塩に使おうとしたのかと思っていたのです。阿呆だったなあ〜、だいたい、体から出た塩なら、元々体内から絞り出したものであり、摂取した事にならんではないか。

東海道五十三次(18)歩行距離:21.5km(日本橋〜370.3km)

2010年9月18日(土)
(19)名鉄津島駅〜佐屋街道・佐屋宿〜桑名宿〜近鉄益生駅

7月に海の日の三連休で歩いた時に、あまりの暑さのせいで、汗っかきの私は3日間ともTシャツに塩をふいてしまいました。そのため、猛暑の8月はやめておいて、今回の歩行となったわけです。それでも天気が良くて、まだ暑いには暑かったのですが。

前回、東海道の脇往還である佐屋街道(熱田神宮〜桑名を舟で渡る「七里の渡し」ではなく、それを迂回して歩いて通る道です)を途中まで歩き、津島神社に寄ってから撤退したので、今回は新幹線で名古屋まで行った後、名鉄に乗り換えて津島駅からのスタートです。
津島駅からは……本来は埋田追分まで引き返して、佐屋街道に復帰すべきなのですが、どうも道が途絶えて居たりしてハッキリしないそうなので、佐屋街道の終着点・佐屋宿を目指して南下する事としました。
線路沿いを南下しながらちょっと道を外れたりしながら、なるべく旧街道的な匂いの道を選んで進みました。東海道もここまで歩けば、これまでに道に迷った回数も数知れず。ちょっとだけですが、何となく旧街道臭い道を見る目が養われて来た心地がします。適当に進んでいると、ビンゴ! 「愛宕追分」という道標がありました。旧来の石碑は残っていないようで、新しく造られた鉄製でしたが。
と、ここで図に乗ってしまったのがいけなかったのか、その後あらぬ方向へ向かう羽目になってしまいました。うーむ、何時の間には何も無い画一的な農道を歩いています。街道の匂い一切無し……幸い、私の携帯にはコンパス機能が付いているので、針路を軌道修正し、佐屋宿を目指して進みます。やがて「佐屋街道址」という比較的新しい石碑。街道に復帰です。
しばらく進んで「佐屋宿」に到着。宿場の入口付近に松尾芭蕉の句碑があります。ここも往時は宿場町だった筈なのですが、その風情は殆ど残っていません。しかし、かつてはこの辺りには宿場があって、川があって「佐屋三里の渡し」があったのです。残っているのはそれを偲ばせる石碑くらいです。如何に舟を使わない道とは言え、木曽川・長良川・揖斐川が集中しているここばかりは、当時は舟でなければ渡れなかった様です。現在は橋で渡れるので、私は橋を目指します。
佐屋宿から、現在の木曽川・長良川・揖斐川の方向に歩きます。休憩。喫茶店でアイスコーヒーを飲みました。注文すると、「サンドイッチか菓子が付く」との事。まだまだ名古屋喫茶文化圏なのでしょうか。小腹も空いていたので、サンドイッチ付きにしました。店内には、テーブル面が画面になった麻雀ゲームのゲーム機が置いてあります。昔の喫茶店に置いてあったインベーダーゲーム機のような機械です。このゲーム機がまだ現役なのだろうか? それとも、アンティークなのだろうか? 判然とせぬまま、暑さでくたびれた体を休め、再び歩きます。
  
芭蕉句碑 & 佐屋三里の渡し & アンティーク?

やがて、幅の広い川に差しかかります。木曽川です。そこにかかる尾張大橋を渡り、しばらく進み、続いて伊勢大橋を渡ります。川幅が広いので橋の長い事長い事。伊勢大橋の方は、長良川と揖斐川が河口付近で合流するので、中間地点に中州のような場所があります。そこには中堤信号という信号がありました。普通の国道で橋の途中に信号があるというのも珍しいです。尚、ここは右折禁止だそうです。そりゃあそうだよなあ、前も後ろも長い橋。渋滞は洒落にならんものがありますからね。ふと振り返ると、川の向こうに富士山が乗っかった円盤型の展望台がせり上がって行く様が見えました。あんな物もあったのか……後で調べてみると、長島リゾート系の施設の一部のようです。
川を渡り切ったら桑名の七里の渡し……かと思いきや、ここから更に川縁を海に向かって下る必要がありました。七里の渡し周辺は公園になっており。また、この周辺は大きな宿場だったと見え、町の区画の構造も宿場町らしさが残っていました。ここには料亭・精肉・惣菜で有名な「柿安」の本店があります。柿安本店で豪勢に肉でも食うか! と思ったのですが、あまりに静かな佇まいの料亭本店の方には、汗みどろの男一匹では気後れしてしまい(「御予約は?」とか言われたら嫌だしなあ……)、精肉店本店の1階軽食コーナーのような所で、「その手は桑名の蛤」というわけで……「はまぐりラーメン」というのを食べました。
  
富士山型展望台 & 柿安本店 & はまぐりラーメン。

佐屋街道から東海道に復帰したので、道案内は比較的しっかりしています。特に、宿場周辺では道が違う色で舗装されています。思えば、佐屋街道は随分情報不足な中よく歩いたなあ……と我ながら思います。青銅製の鳥居が見えて来ました。「桑名宗社」という神社がありました。二つの神社が合体しているという珍しい構造です。尚、この青銅製の鳥居は、この町が鋳物の街だった頃の名残だとか。更に進むと、東海道ミニチュアのような公園がありました。おっと、ここにも富士山の模型が。先程の展望台と言い、随分富士山の模型が多いです。
道標の多い東海道に戻れたのもつかの間、宿場の外れの火の見櫓の辺りで日が暮れてきたので、今日の行程はこれにて終了。桑名で泊まろうと思ったのですが、何と、電話をかけたビジネスホテルが立て続けに、団体客で一杯との返事。そう、一人旅なので、予約などしていません。行き当たりばったり旅です。参った……しょうがないので、四日市のホテルにかけてみると、何軒目かでようやく確保。火の見櫓の近くの近鉄益生駅から四日市まで電車で移動しました。四日市駅の近くで、地域のB級グルメ「トンテキ」を食べ、宿泊。この続きは、次の日誌で。
  
ダブル神社 & 火の見櫓 & トンテキ。

東海道五十三次(19)歩行距離:約20km(日本橋〜390.3km)※佐屋街道、正確な距離分からず。

2010年9月19日(日)
(20)近鉄益生駅〜四日市宿〜石薬師宿〜庄野宿〜亀山宿

9月18日夜には近鉄四日市駅近くで宿泊したわけですが、テニスウェアを着ている客が多いような気が……朝食の時にそれは確信に変わりました。テニスウェアだらけ。中には岩手県というゼッケンを付けている客まで。昨晩あちこちのビジネスホテルに電話をかけた時に「団体で満室」だった理由が分かりました。どうやら三重で全国規模のスポーツの大会がある様子。
後で調べてみると、丁度この三連休に、スポーツマスターズ三重大会というものが開催されていたそうです。参加者約7,000人。そりゃあ、ビジネスホテルも一杯になるわなあ。


朝食を終えた私は、近鉄で前日の中断地点、益生駅まで引き返しました。しばらく住宅街になっている旧道を歩きます。やがて町屋川に掛かる町屋橋に辿り着きます。常夜灯がありましたが、その先の旧道には橋は無し。嘗ては木造の橋がここに掛かっていたそうですが、現在はすぐ横の国道一号線に橋が掛かっています。一旦国道に合流して、橋を渡ってすぐまた旧道を歩きます。この辺りには「御厨」と付いた神社が随分ありました。後で調べると、中世に力を持っていた有力な神社の荘園を意味する言葉だそうです。三重と言えば伊勢神宮。伊勢系の荘園に配置された神社というわけか。存外政治的な意味合いのネーミングでした。
しばらく進むと、朝明川を渡ります。近くはまたも常夜灯。丁度その辺りで伊勢湾岸自動車道の下をくぐるのですが、信号機を見上げると、そこには「柿」と書かれていました。かき交差点? 昔ここに柿の木でも生えていたのでしょうか……ふと思い出したのは、茨城にある「鯨」という交差点。茨城県でも比較的埼玉に近い辺りで、海はそう近くないのに、「鯨」。かつては海に近かったのでしょうか。
  
「ここはあぶない」 & 御厨 & 柿。

続いて旧道を歩きます。歩道が無い部分が多い割に車の通りがあり、歩き難い道です。ふと見上げると、その道の前方遥かまで、道をの上にまたがっている電線の中間点に何やら灰色の萎んだポンポンのような物が付いています。うーむ、何だろうか、これは? 何かの目印?
近鉄富田駅そばにある一里塚を過ぎて、更に旧道を西へ。道端に「くわなのつめたいおやつ あいすまんじゅう」の幟がありました。興味あり! アイスまんじゅうと言えば、私の中では九州の丸永製菓のずんぐりしたアイスバーを思い浮かべるのですが、桑名名物なのか!? 生憎幟を出している所は店には見えず、店だとしても営業していない様子なので断念。あとで調べてみると、桑名の方が発売が早いものだそうです。九州名物とばかり思っていました。
と、ここいらで旧道がT字路で突き当たりになってしまい、道のチョイスを誤って迷ってしまいました。逡巡する事しばらく、またまた携帯のコンパスの頼りになってしまいました。住宅街でコンパスで道を確認している私って……
しばらく進んで右側から一号線に合流した後、左側に抜けて再び旧道です。多度神社と三ツ谷一里塚を見て、川を二つ渡ると、「四日市宿」が近付いてきます。「笹井屋のなが餅」という名物菓子の店がありました。あいすまんじゅうを食べ損ねた私は、取り敢えずその最小サイズを購入(7個入り)し、公園で一休みしながら食べました。
  
謎のポンポン & 鳥居の下を車で通るべからず & なが餅。

商店街等のある市街地に近付きました。昼頃にようやく今朝起きた町まで辿り着きました。幟等で、首の長い大入道のイラストを何箇所かで発見。四日市の祭りに出て来る山車の一つがこの首が伸びる大入道だそうです。身の丈3.9mで、首が2m伸びるとか。四日市市のシンボルキャラクターだそうです。待てよ? 先程、道にまたがる電線にポンポンが付いていたのが疑問だったのですが、もしかしたら、あの道にも大入道が通るのでは? そして、その首が引っ掛からないようにするための目印とか? この推理の正否は分かりませんが……
しばらくする国道一号等太い道が交差するあたりに「日永追分」がありました。道に囲まれた三角州のような状態で鳥居と道標があります。ここを右に抜け更に進みます。内部橋を渡り、杖衝坂という坂を上ると、小高い所に出て、国道に合流します。見ると、随分な斜面に、もうけられたゴルフ練習場がありました。うーむ、あそこに書いてあるヤード数は果たしてあてになるのだろうか? 下世話な詮索はこの辺にしておいて、国道に合流して進み、再び旧道に入った辺りで、年配の男性(以下T氏)に声を掛けられました。この方も街道歩きをしているそうで、しばらく一緒に歩く事に。
  
大入道 & 「?」に迷惑をかけるな & 日永追分。

やがて「石薬師宿」に到着。石薬師と言うからには、薬師如来の石仏がある筈……石薬師寺という寺があったので、T氏には先に行って貰い、寺を観ました。本尊は見られなかったのですが、境内にある頭でっかちの石仏群がなかなか面白くて、しばらく見て居ました。
再び国道一号線に合流して、合流したり別れたりしなが「庄野宿」に到着。この辺りで、先程のT氏と再び一緒になりました。歩行速度は私の方が速いのだなあ……と内心調子に乗っていたら、この方は、東海道歩きは始めてから13日目との事。私は20日目……ガーン、全然俺の方がペース遅いやないか! さて、この辺りにはやたらと「川俣神社」という神社が多いです。その中の一つに、樹齢推定300年というスダジイの巨木がありました。巨大で古いのに葉はみずみずしい……古来、木が神格化されるのもよく分かる気がします。
国道に合流したり離れたりが続きます。ふと振り返ると、東(私が背を向けている方角です)に気球が3つ程浮かんでいました。気球を飛ばすイベントでもしているのでしょうか。無人駅の井田川駅を過ぎて、再びふと東の空を見ると……うわっ!!? 気球が10も20も浮かんでいます。多過ぎ! 後で調べてみると、「鈴鹿バルーンフェスティバル」という催しがあったそうです。
日が傾いて暗くなってきています。瓦葺の3階建てマンションという何やら気になる物件を脇目に道を急ぎます。目指すは今日のゴールに想定している「亀山宿」です。カメヤマローソクの工場がありました。蝋燭の国内トップ企業(シェア50%)です。本社は大阪ですが、創業の地がここ亀山なわけです。「亀山宿」到着のめどが立ち、今夜の宿を探して電話を掛けた後休憩していると、T氏と遭遇。ともに亀山を目指します。暗くなって、私は亀山駅近くのビジネスホテルに。T氏は、もう少し先のホテルを取ってあるとの事で、まだ先に進みます。私とT氏のペースの違いは、朝の早さとその日の目標地点まで歩く根性にあるのだなあ……
  
石薬師寺・地蔵チェス? & 気球軍団 & 亀山ローソク。

東海道五十三次(20)歩行距離:31.7km(日本橋〜422km)

2010年9月20日(月)
(21)亀山宿〜関宿〜坂下宿〜土山宿〜水口宿

亀山で泊まったビジネスホテルから街道に復帰すると、そこは「亀山宿」。宿場町のあたりは、歩道の色が変えてあって、古い家並みが多く残っている町でした。亀山宿西端を抜けてもまだその街並みは宿場然とした、野村という地域が続きます。その外れにてっぺんに大きな木の生えた一里塚があります。
しばらく進むと、川沿いになり、大岡寺畷という道を通ります。この辺りでちょっと小雨がパラつきました。おっと、今回は折りたたみ傘を持って来るのを忘れていた……まずい事にならなければ良いが……狐の嫁入りだったのですぐ止み、助かりました。真っ直ぐ進み、東名阪自動車道の下をくぐり、JRと国道一号線とを越えると、「関宿」です。

関宿は国道を越えてすぐの入り口の所こそ地味ですが、いざ宿場に入ると、地域を挙げて宿場町という地域性を環境資源にしようという努力の強い町でした。古い家並みの保存の他、随所に宿場の匂いがします。日本郵政も協力的で、ポストは黒い箱に庇が付いて「書状集箱」と書かれています。よく古い街並みで見る赤い円筒形のタイプではなく、景観維持のために専用形状にしている様子。観光地として整備された展望台や休憩所等、宿場の押し出しは東海道随一かも。
宿場の中ほどに大きな寺がありました。地蔵院。大小の僧形の像が多い寺でした。本堂右側に、びんずる尊者像と思しき木像があります。矢張り、撫でると利益があるというやつなのか、削れています。それにしても、びんずる尊者系の木像を見るといつも思うのですが、結構スプラッターよなあ……顔を中心にあちこちがずるむけです。
  
亀山宿街並み & 関宿の書状集箱 & びんずる尊者?

西の追分で宿場は終わり、国道に合流。そこからは鈴鹿峠に向かってだんだん上り坂中心にになってきます。右には小高い所に関ロッジという建物が見えます。国民宿舎、とか。興味深いのは、ブルートレインが置いてあって、そこに泊まる事も出来るのだとか……うーむ、マニアックです。山の宿泊施設に来て、わざわざ狭いブルートレインで寝るという酔狂。これはこれで味わってみたい気もします。そう言えば、私は列車は好きな方なのですが、寝台列車には乗った事がありません。夜間に走る電車と言えば、ムーンライトながら(通常の東海道車両)くらいしか乗った事がないです。
筆捨山という山が見える場所から更に進み、国道を離れて、山道に入ります。お! 誰かがうずくまっている!? 妙にリアルでちょっとドキッとしました。見ると、足元は円盤状の台になっているのですが、その台から足が連続しています。台のサイズの丸太から、彫り出した像なのか……
  
関ロッジ & 山車象? & リアル木彫り像。

沓掛集落を通り、白がまぶしい古い小学校の木造校舎を元にした鈴鹿自然の家の前を通りしばらく進むと「坂下宿」。嘗ては鈴鹿峠越えに備えて、或いは鈴鹿峠を越えてからの宿場として栄えていたそうですが、今は見る影もないです。
国道の峠道に合流し登ります。しばらく行くと、「大道場岩屋十一面観音」という碑があり、閉ざされた門扉(低いもの)がありました。「大道場」この響きに興味を惹かれになり、門扉を押すと、鍵はかかっていませんでした。入ってみると、小さなお堂(こちらは鍵がかかっていて、この中に居るであろう十一面観音は見られず)と滝がある程度……にも関わらず、所々に撮影禁止の文字。山岳、滝、仏像……修験者の修行場? その修行を撮るなという事なのでしょうか。
峠道を進むと、右手に片山神社という石碑があり、そこからその参道兼の石畳の道を登ります。登った上方は杉木立の間を通るような恰好で進むと、分かれ道があり、その一方には鏡岩という岩があり、そこから峠道を見下ろせます。鏡岩の分岐まで戻って、正規ルートを向かうと、そこはもう三重県と滋賀県との県境。茶畑があり、滋賀県甲賀市になります。思ったより短い峠でした。箱根と比べると随分小規模です。いかにもな峠道に至るまでの登り坂が私の脳内でカウントされていないせいでしょうか。越えた先の滋賀県側はゆるゆると国道を下っていきます。
国道の脇の砂利道を下ると、小さな祠があり、「蟹塚」というのがありました。また、近くには「蟹坂古戦場跡」という看板も……この地域は蟹と縁が深い? そこから更に殆ど国道に沿って道を下って行きます。新名神高速をくぐって更に進み、右手に逸れて旧道を歩くと、海道橋という橋があり、そこから田村神社(坂上田村麻呂を祀っています)の参道正面に出ると、道の駅・あいの土山に到着。鈴鹿峠からここまで途中に何も無く、飲食もままならない状態だったので、ここで休憩です。すぐそばには「田村神社名物・かにが坂飴」の店がありました。原材料:澱粉、大麦麦芽、以上。シンプルの極みです。400円也。買ってみました。うーむ、干し芋のようなやさしい甘さ。えーと、子供がまずいと言いそうな飴です。道の駅では、前日にお会いしたT氏が休憩をしていました。T氏は食事を摂った後の休憩だそうです。私は今から食事。土山は茶が売りだそうで、茶そばならぬ茶うどんを食べました。
  
鏡岩からの景色 & かにが坂飴 & 茶うどん。

道の駅の裏から「土山宿」です。鈴鹿峠を越えてから殆ど国道を歩いただけだったので、期待していなかったのですが、思ったより遥かに宿場町然としていました。ここには、森鴎外の祖父が亡くなった旅籠や、その墓参りに来た鴎外が泊まった旅籠があったそうです。宿場を抜けてからは国道に合流したり離れたりを繰り返して西北西へ歩きます。橋を渡る度に鈴鹿山系の水の綺麗そうな川が見えます。
住宅街で興味深い物を見付けました。「堆肥化システム回収容器・甲賀市」。遊園地やテーマパークで清掃スタッフが引いている車輪付きのゴミ回収ボックス風の樹脂製箱です。生ゴミをこれで回収して堆肥化するサイクルが構築されているようです。こういうのって、廃棄側、回収側ともにルールを順守していないと機能しないものなのですが、ここでは上手く回っている様子です。但し、そばに「こういう物は捨てないで下さい」という張り紙があるという事は、過失か故意か、異物が入る事も結構ありそうです。
やがて、「水口宿」に到着。もう日が傾いて居ましたが、水口宿にも宿場町の匂いが結構あります。この日は三連休の最後なので、帰る必要があったため、ペースは速めでした。あ、あの「ESP指導所」「エスパーシール」なる怪しげな店も気になるが、やむなくスルー。何とか、近江鉄道・水口石橋駅に到着。電車を待っている間、先程のT氏と合流。近江鉄道で1時間半かけてJR米原駅。そこから新幹線です。三連休の最終日でしたが、ひかり号で喫煙席であれば、何とか座れました。新幹線ではT氏と並んで弁当&麦酒。街道歩きについて喋りながら帰りました。このT氏は既に中山道を制覇している猛者で、色々有益な事が聞けました。
  
土山宿 & 堆肥化システム & ESP指導所。

東海道五十三次(21)歩行距離:32.5km(日本橋〜454.5km)

2010年10月10日(日)
(22)水口宿〜石部宿〜草津宿〜JR膳所駅

10月9日は雨でした。こちらは勿論、今回のスタート地点の滋賀県水口も雨でした。しかし、近畿圏は私の地元。今回は実家を宿泊拠点にして歩く事にし、9日は前泊です。
10日は雨が上がって、この日は「水口宿」近江鉄道水口石橋駅からスタートです。駅のそばには、道案内の看板が所々にあります。また、史跡水口城址の復元された角櫓を見て(朝早いので中には入れませんでした)、歩きます。水口石橋駅周辺は宿場町らしさの残っている町で、所々に古い家屋や造り酒屋などがあり、情緒があります。復元された松並木もありました。が、しばらく進むと、周辺は田んぼだらけに……前回9月下旬に歩いた時には、厳しい残暑の影響で、彼岸なのに彼岸花がまだ咲いていないという状況でしたが、この時にはもうもう盛りを過ぎて居ました。9月はあんなに暑かったのに、10月半ばから急速に寒くなりましたしね。彼岸花に代わって、コスモスが咲いているのをよく見掛けました。
  
水口城址 & 落ちそうな地蔵 & コスモス。

しばらく進んでいると、鈴鹿山脈の方からほぼ街道に並行してきていた野洲川を渡る「横田の渡し」に到着します。勿論、現在は渡し船などありませんから、迂回して橋を渡ります。それでも、渡し場跡は、七里の渡し程ではないにしても、公園が作られていました。橋を渡ると、JR三雲駅があり、そこからは駅に近いという事もあり、旧街道沿いに家並みが続きます。すぐ脇にある国道一号線には車が行き交っています。
この辺りから「石部宿」までの間で面白いのは、何と言っても天井川でしょう。山地の方から流れる川が、道よりも高い所を流れて居り、そこにトンネルが掘られていて、その下をくぐるという物です。かつては氾濫する川だったため堤防が築かれ、その堤防の底に土砂が堆積し、また堤防を立てて……とやっている内に高くなってしまった川です。現在はセメントで固められており、人工的に作られた水路にも見えます。大沙川トンネルという所は上に上がると弘法大師像までありました。こういう物も、嘗ては氾濫した事を忍ばせます。同じく天井川の由良谷川をくぐり、更に西へ。やがて「石部宿」に到着です。
  
天井川 & 弘法大師像 & こんな所に名前を彫る意図は一体?


石部宿の入り口辺りには、「東海道石部宿 珈琲クレッシェンド」という喫茶店があったので休憩。うーむ、休日の午前中ですから、店員のおばさん一人と客はタクシーの運ちゃん一人。うーむ、私だけ異邦人という感じです。朝食は摂ったのですが、小腹がすいていたので、モーニングを食べて、石部宿に入ります。
ここにも宿場的家並みが残っていて、民家や商店の軒先には、太くて短い竹筒に花を生けた「竹筒でつなごう 花のあるまちづくり」という物が置かれていました。地域が主体となって地域を盛り上げようという主旨でしょう。旧街道の宿場町という観光資源を使わない手はありません。茶店を模した、田楽を売る店もありました。こんなのがある事を知っていたら、モーニングなんか食べなきゃよかったなあ……
石部宿の西端には、金山の跡地というのがあり、そこを迂回するように回る道になっています。ふと道路に何やら蠢く物を見付けました。うげげ、ハリガネ虫です。すぐそばには潰れたカマキリの死骸がありました。ハリガネ虫というのは、御存じない方に説明しますと、カマキリの腹の中に居る寄生虫で、錆びた鉄や銅のような赤茶色で、1.5mm程度の太さ、まさに針金のような姿で、長さは10cmくらい。それがくねくねと動いているのです。気持ち悪い!! 写真は撮りましたが、グロ画像なので、載せないでおきましょう。それにしても……ハリガネ虫という名称。針金が世に出てからの名称なわけですよね。生物の中では比較的新しく命名された名前なのかも。
  
竹筒でつなごう & 石部宿 & バーロー、湖南だよ。

やがて、形の綺麗な近江富士が見えて来ます。それを右手に見て更に進みます。六地蔵という、惹かれる地名の辺りに、史跡和中散本舗があります。近江の豪商の邸宅です。この和中三というのは腹痛の薬で、徳川家康が命名したのだとか。和中三本舗から、道が合流するような所に、「交通安全」という大きな看板がありました。ん? 何やらきらめいて見えます。この看板、縦横に巡らせたフェンスに小さな樹脂プレートを吊るして埋め尽くされて書かれた看板で、プレートが風で動くわけです。これは、電気等を使わずに動く看板で、なかなか賢い手だなあ……
そこからは、東海道手原村という地名で、旧家が多数見られました。すると、雨。先程から空の色が気になって来ていたのですが、とうとう本降りです。慌てて地蔵堂のような所で雨宿り。幸いこれは通り雨で、すぐ上がりました。その近くの稲荷神社の前に掌の形をした台が……神社だが、仏教的な匂いのするオブジェです。しかし、横にある札を見て脱力。「テハラベンチ」と書いてあります。ここの地名に掛けたベンチでした。
  
近江富士 & 和中三本舗 & テハラベンチ。

栗東に入り、さらに進みます。やがて、溜池のような場所にぶつかり、そこを迂回……と思ったら、そこにあるバス停の名が目を惹きました。「帝産バス 坊袋(ていさんバス ぼうぶくろ)」……お、お嬢さん! こんな所でバスを待つと妊娠しちゃうよ!! 何となく字面と響きから……うーむ、私の頭はどうかしているなあ。
気になる石碑がありました。「田楽発祥の地」。ほほう、いわゆる味噌田楽の発祥の地なのでしょうか? しばらく行くと、「ほっこり庵」なる田楽の店が! こりゃあ、試してみたい……が、生憎やっておらず。その脇には「足湯」という所もあったが、戸は開くものの誰も居らず、湯も無く……どうなってんだ!
そのほっこり庵の前を右折し、琵琶湖方向へ向かうとやがて国道1号線にぶつかると、名物「うばがもちや」と「宿場そば」という店が見えます。ちょっと遅めの昼食はそばにしました。なかなか美味。折角なのでデザートに「うばがもち」を。周囲をこし餡で覆った一口サイズの餅です。味は、赤福と一緒! ていうか、餡子+餅という物は全国各地に名物あれど、味はどれも殆ど同じだなあ……
  
坊袋 & 田楽発祥の地 & うばがもち。

そのまま国道一号線をまたいで進むと、やがて東海道と中山道の分岐点に到着。即ち、ここから京都までの道は、共通なわけです。このあたりが「草津宿」になります。中山道と東海道の合流地点だけあり、大きな宿場だったようです。しかも、本陣は昔の遺構がそのまま残っているので、一見の価値があります。宿場町は現在は商店街になっており、「カラオケたび丸君」なる穴から顔を出して写真を撮る板がありました。しかし、穴があいているのは顔の所ではなく、腹! 腹から顔を出して写真を撮ってどうする!
しばらく進むと、矢倉立場と言う場所があります。先程の「うばがもちや」は昔はここにあったそうで、安藤広重が絵に描いています。また、ここは分岐点になっており、一方は矢橋の渡し方向(渡し船は現在はありませんが、琵琶湖南端を突っ切って大津側に行く渡し場)と、南側に迂回する瀬田の唐橋方向に分岐します。ここは「急がば回れ」の語源になっているそうです。
  
合流地点 & たび丸君 & シュールなピアノ教室。

南側迂回ルートに進みます。しばらく行くと、弁天池という池がありました。池の水面にはホテイアオイがびっしり。池の中央には橋で渡って行ける小島があり、弁財天が祀ってあります。この池の中央に弁財天の島という構造、どこかで? 上野の不忍池に似ています。調べてみると、不忍池は琵琶湖と竹生島に見立てているそうです。という事は、この池も琵琶湖に見立てたミニチュアという事でしょうか。
更に進むと、「ここから大津」と書かれた燈篭があり、大津市に入ります。しばらく進んでちょっと広い道に合流。合流ポイントに「たばこ・宝くじ・ぶつだん」と大きく書かれた店が見えました。うーむ、本業は仏壇仏具の店の様ですが、煙草と宝くじの後に仏壇が来るとは……末世よのう。続いて、「瀬田名物 でっちようかん たにしあめ」の看板のある店のそばを通り抜け(この店も気になったのですが)、瀬田の唐橋を渡ります。この時点で17:30。しかし、まだ明るいので、行ける所まで……膳所城址が所々に埋まる街を抜け、暗くなって来る頃に、視界に異様に高いビルが入って来ました。プリンスホテルです。周囲の建物と比較してずば抜けて高い。滋賀県は西武グループ発祥の地。プリンスホテルが妙に多いのです。西武マークのバスも走っています。
19:00前ほぼ真っ暗の状態で、JR膳所駅に到着。この日はここまでです。
  
弁天池 & でっちようかん、たにしあめ & 瀬田の唐橋。

東海道五十三次(22)歩行距離:38.2km(日本橋〜492.7km)

2010年10月11日(月)
(23)JR膳所駅〜大津宿〜京都・三条大橋

東海道歩きラストスパートです。と言っても歩いたのは10月11日。もう一月も経ってしまいました。
さて、10月11日は膳所駅からスタートです。残す所あとほんの少し。

膳所駅はJRと京阪の乗り換えがあるので、両方の電車が走っています。見ると、竜馬電車という竜が描かれている車輌が走っていました。膳所駅から街道に復帰するとすぐに、義仲寺という寺があります。文字通り、木曽義仲を弔っている墓だそうで、また俳人松尾芭蕉はこの寺を愛しており、大阪で死亡した後、ここに葬られたそうです。なので、芭蕉の辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を 駆け廻る」の句碑があります。しかし、早朝なので開いている筈も無く、その前を通って進みます。とは言え、門前の柳が見事な寺でした。
程無く、道端に地蔵とその謂われが書かれた札がありました。常世川と地蔵尊、とあります。川? そこには小さい用水路のような細い川がありました。地蔵も小さいし……名前の割にはしょぼいというか……こういう発想は色(形)に囚われた凡夫の発想なのでしょう。罰当たりな。聖書等の寓話で、賢者が最初ボロを着て村を訪れたら邪険にし、その後綺麗な恰好で現れたら厚遇したなんて話がありますが、そういう話に出て来る村人のような浅ましさです。
  
竜馬電車 & 義仲寺 & 常世地蔵。

滋賀県庁の前を通り、更に進みます。やがて、周囲であちこち山車を組み立てているに出くわしました。丁度大津祭の時期だったようです。それを横目に進むと、「此附近露国皇太子遭難之地」という石碑がありました。大津事件の碑です。更に太い道を越えると、「元祖阪本屋鮒寿司」という歴史のありそうな店がありました。滋賀県の郷土料理、鮒鮨です。これ、好きな人は好きなのですが、私はどうも苦手です。
おっと、道をちょっと外れていたようです。引き返して太い道に戻ります。この辺りが丁度「大津宿」の中心地だったそうです。今ではその面影は殆ど残っていません。この道は真ん中に路面電車が走っています。これは京阪電車の線路で、路面電車になっているのは一部で、やがて道路から離れて逢坂の関を越える電車になります。
さて、逢坂の関と言えば、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」の蝉丸です。その蝉丸を祀った芸道に御利益のある蝉丸神社が、ここからの上り坂にはいくつかあります。絵馬を見てみると、気取って英語で書いているのにスペルが間違っているという残念な物なんかがありました。人の絵馬を見るのって悪趣味だなあ……そう言えば、蝉丸って、昔、坊主めくりをやった時に、坊主か否かそれとも? と議論になった覚えがあります。
しばらく国道脇の歩道を歩いて上り坂を登って行くと、逢坂の関の碑がありました。尚、このすぐそばには鰻の名店「かねよ」があります。ちゃんと炭で焼いているので、旨そうな匂いの煙が風で運ばれてきます。時刻は10時。開店は11時。もう焼いているのですが、開店までまだ1時間もあります。うーむ、流石に1時間は待ってられん。ここならばまた来る事も可能と諦め、そのまま歩き続けます。この辺りで坂は下りに変わります。
坂を下り切った辺りで、名神高速を右斜め方向に潜って進むと、山科追分です。京都府に入る手前にある旧道の分岐点で、右が京都方面、左が伏見方面です。右の針路を進むと、やがて京都府入りです。
  
山車 & 蝉丸神社 & かねよ。

しばらく行くと、山科の商店街に入ります。山科地蔵の前のベンチで休憩し、さらに進みます。結構速いペースで来ているので、時間に余裕が出来た感じがしたので、ちょっと脇道に逸れてみました。山科毘沙門堂と山科聖天が気になったので行ってみました。ちょっと右に逸れて上り坂になります。この毘沙門堂には、見る角度によって顔や目の向きが変わる龍が描かれた天井や、動く襖絵(逆遠近法という手法により、見る角度によって絵が動いて見えます)といった面白い物があります。しかし、私の中でのメインディッシュは、実は聖天の方だったりします。別名・歓喜天。あちこちの寺で秘仏になっている象……否、象の像なのです。インド神話にガネーシャという象頭の神が居ますが、それが仏教に入った姿だそうで、男女の象頭が抱き合った姿をしているのだとか。その図は何度も見ているのですが、聖天像を見た事がないのです。しかし、期待空しく、矢張りここでも秘仏でした。うーむ、仏教的には象とは言え、男女抱き合うの図はあまり表に出すべき物ではないのでしょうか。
街道が通っている商店街に復帰します。商店街には、何やら茄子に顔を書いた風船があちこちにあります。「もてなす君」という山科のキャラクターだそうです。京野菜の山科茄子をモデルにしているとか。時刻は13時。空腹です。見ると、何やら惹かれるカレー屋があったので、入ってみました。大阪のカレーうどんの「得正」の系列のようです。上等カレーと書かれた皿に盛られたカツカレーは、別添の生卵を混ぜて食べるとなかなかの美味。カツが薄っぺらいのですが、カリッとしていて良い感じです。しかし、後で調べると、どうもカレーライスの店も大阪に沢山ある様子。私は初めてでした。
  
歓喜天 & トルストイVSもてなすくん & 上等カレー。

商店街が終わってもそのまま進みます。途中で道に迷いながら進んで行くと、やがて細い上り坂になります。上り坂の中腹に、亀の水不動尊という祠がありました。穴から石造りの亀が出ており、その口から湧き水が流れ出ています。穴のその奥には小さな不動明王像がありました。
細い道から国道に合流する所で、逢坂の関の車石をモチーフにした小さな公園に到着。車石とは、逢坂の関を荷車が通りやすくするために敷かれた石で、レールのように、荷車の車輪に合わせた溝のある石です。
そのまま国道を進むと、京都市街です。ゴールは間近。見ると、ねぶたのような山車と、巨大な矛を担いだ人の群れ……丁度、粟田神社大祭という祭りが行われていました。巨大な矛の穂先は薄っぺらい金属で出来ていて、それをビヨンビヨンとしならせながら歩いています。やがて、三条大橋に到着。
長かった東海道五十三次も、これにて終了を迎えました。思えば遠くへ来たものだ。次は、中山道か! いや、しばらくは、歩きの旅はお腹一杯です。いずれ歩きたくなる時が来る事でしょう。その時まではしばし封印です。
  
甕の水不動尊 & 粟田神社大祭 & 三条大橋の高山彦九郎正之。

東海道五十三次(23)歩行距離:14.5km(日本橋〜507.2km)