2007年12月度目次
 #770 「仇討ちの是非」 義弟の殺意.
 #771 「ブルーノ・ムナーリ展」 そして、東京大仏。
 #772 「青龍」 朝青龍&野球北京五輪予選。
 #773 「もったいないおばけ」 批判&懺悔。
 #774 「やってもうた!」 年賀状用版画で初歩的ミス。
 #775 「寒中ゴルフ」 私は凄く下手です。
 #776 「大は小を兼ねる?」 メガ牛丼&低いスイッチ。
 #777 「死刑の是非」 危険思想でしょうか?
 #778 「店員の質」 店員がムカつく店は使いたくない。
 #779 「Red Bonze」 不法侵入ビラ配り僧控訴審。
 #780 「Rosso」 スポーツのチームカラーは赤が多い。
 #781 「女の敵」 すいません、女性専用車両批判をさせて下さい。
 #782 「The Shotgun Panic!」 佐世保のクレイジー男。
 #783 「王道と覇道」 じゃあ、私は邪道で。
 #784 「エコプロダクツ」 先週末の展示会。
 #785 「バタバタ師走」 やっぱり12月は忙しい。
 #786 「撲滅という言葉」 って、結構乱暴な気が。
 #787 「メンタルヘルス」 ストレス社会と言われています。
 #788 「O阪の出張」 ついでにルミナリエを見たかったが……
 #789 「師走電飾」 省エネわびさびアンチクライスト電飾!?
 #790 「ハピバスデイ」 天皇陛下&基督。
 #791 「油地獄」 原油価格が高騰して久しいです。
 #792 「暫定税率」 続・油地獄。
 #793 「サクサク? or ふにゃふにゃ?」 私はふにゃふにゃ派でサクサク派。
 #794 「最終回」 あくまで2007年の、です。2008年も宜しく御願いします。

2007年12月28日(金)
駅日誌(794) 「最終回」

2007年の当駅日誌は本日分で最終回です。「最終回」などというタイトルをつけていますが、2007年の最終回でして、年明けには次の更新があります。今夜から、会社の後輩で帰省の方向が同じ人の車に、寄生して帰省です(上手い事言ったつもりか!)。

先日の駅日誌(12月6日の#774「やってもうた」)でも書いた通り、今年も木版画の年賀状を作成し、今日までに一応投函し終わりました。昨年は喪中のため年賀状を出せなかった事もあり、今年の葉書には亥年の「猪」と子年の「鼠」、両方を描き込む形のデザインにしました。

さて、つい先日から、私の職場には新しい社員が入って来ました。部内に寿退社する人がいるので、その穴を埋める補強人員となります。
←こんなん
と、言いたい所ですが、これではまるで藤子不二雄の漫画ではないか!! 新たに入社したのは、歴とした人間の麗しい女性でした。
上記の写真は、工事現場に置いてありました。地球の形の宇宙人? じゃあ、地球人? んん? 夜には煌々と光っていますので、「宇宙人か!」と驚かす事くらいにしかならないような気もするのですが、一体何のために?
                               駅員@来年も宜しく御願い申し上げます

2007年12月27日(木)
駅日誌(793) 「サクサク? or ふにゃふにゃ?」

カップ麺のうどんや蕎麦には、天麩羅が入っています。天麩羅とは言っても、それは揚玉を円盤状に固めた物に過ぎません。しがない独り者の私は、やっぱりこういったインスタント食品を食べる事が結構あります。
一時期、日清食品の「どん兵衛」のCMで北大路欣也(だったっけ?)が「後乗せ、サクサクじゃあ!」とやっていて、その辺りから天麩羅は麺を湯でふやかしてから入れる風潮になりましたが、私は「先乗せ、ふにゃふにゃ」の方が好きです。あの殆ど衣という構造の天麩羅だと、出汁が十分に染みた状態の方が美味しく感じます。関東炊き(関東風おでん)に竹輪麩という具材がありますが、あれも私は煮立って結構クタクタになった物の方が好きです(おでん屋としては、出汁が濁るので、あんまり長時間煮たくないそうですが)。というわけで、私はサクサクよりも「ふにゃふにゃ派」であると言えます。

一方、最近NTTドコモのCMで、木村祐一が妻夫木聡に「機械がこんなに早く動くようになっているのに、使う人間がサクサクせんでどないすんねん!?」というのがありますが、これについては、私は大いに賛成なのです。どちらかというと根がせっかちな方なので、時間が勿体無いと感じる事が多く、サクサク動かんとなあ、と常々思っています。時は金なり……否、金よりも価値があると思っているのです。
仕事においても、私はなるべくスピードを重視するようにしています。ビジネスとは戦と同じで、機動力は結構重要だと思うのです。例えば、後三日かかる見込みの行軍を電光石火の速さで一日で移動出来たとしましょう。そうすると、敵陣は三日後に兵の士気がピークを迎えるように準備をする筈です。緊張感の維持は疲労に繋がり、士気の低下を招きますので、一日目くらいは酒を振舞って今後の士気上昇の土台を作っている事でしょう。そこに想定外の速さで夜襲を仕掛ければ、一網打尽に出来ます。期待よりも早く動く事のアドヴァンテージはかなり大きいと私は踏んでいます。
最近ようやく「あいつは仕事が早い」と人から評して貰えるようになりました。今日も、他の部の上司に「○○はどうなりそう?」と訊かれて「もうやりましたよ」と返したら、向こうの目論見よりも早かったようで感心されました。
こっちの意味では、私は「サクサク派」であると言えます。

但し、何事にも副作用というものはあるもので、せかせかとやっていると、つい周りの人にぞんざいな口を利いている時があります。私を憎たらしく思っている人も結構いるんだろうなと思います。

それでも、当面はこの「サクサク派」でやろうと思っています。スポーツの鍛錬同様、サクサク行動に慣れれば、だんだんそれが当り前になり、そうなった暁には余裕も出て来ると思います。ふと思ったのですが、この考え方って、私が十代の頃流行った漫画「ドラゴンボール」の終盤における、孫悟空親子が時の部屋で行った「スーパーサイヤ人の状態を日常的なものにする」という修行の方法論に近いですね。
                               駅員@漫画の影響力って大きいですね

2007年12月26日(水)
駅日誌(792) 「暫定税率」

昨日の「油地獄」に引き続き、石油の話題です。
2007年度末で、道路特定財源の中の揮発油税の暫定税率が期限切れになります。
元来の揮発油税は、ガソリンにかかる税金で、ガソリン1キロリットルあたり\24,300の課税となっています。それが1993年に暫定税率という形で、2倍の1キロリットル\48,600になり、その暫定税率制定の期限が、上記の期限切れを指します。キロリットルではピンと来にくいので、1リットルに直すと、\24.3が\48.6になっている計算です。即ち、ガソリン1リットル、レギュラーで今\150/L程ですから、本来の税率では、\125くらいのガソリンが\150くらいになっている事になります。普段車を運転する機会の多い方には結構大きな負担だと言えます。
その暫定措置の期限を目前に控え、国会では道路特定財源についての審議が活発になる事でしょう。自民党は、暫定税率の延長を狙っています。国の財政事情が厳しい今、これだけの大規模な税収がなくなってしまうと財政がますます貧しくなるという事です。それに対する民主党は、暫定税率撤廃を狙っています。単純に見れば、後者の方が国民に優しいルールだと言えます。
しかし、勘違いしてはいけないのは、石油関係全てに関わる税金ではなく、あくまでガソリンに関わる税金なのです。暖を取る灯油等にはこの税は課税されていません。文字通り道路を利用する者が、道路建設・維持に関わる費用を負担するという、受益者負担の原則に則ったものであり、この形をひっくるめて「道路特定財源」なのです。
尚、日常生活に関わる部分なだけに、ガソリン税ばかりに目が行きがちですが、道路特定財源議論の中の一環に過ぎません。
これについての私の個人的な見解としては、「道路」特定財源ではなくても良いのではないかという考えです。特定財源維持と一般財源化の間の宙ぶらりんな意見なのですが、環境対策・CO2削減費用に回せば、京都議定書の削減目標にも一歩でも近付けるのではないかと思います。一般財源化はせずに、道路以外に環境対策を含めた特定財源化、という線です。「受益者負担」+「破壊者負担」とでも言いましょうか。私も自動車を所有する身なので、肩身が狭いのですが、自動車を所有し走らせる事は、持っていない人よりも環境を破壊していると言えます。
また、見ようによっては、税率上昇でガソリンが高くなった事が、日本車の低燃費技術の発展にも繋がっているという見方も出来ます。
というわけで、私は自分の軽〜い財布を、涙を浮かべて覗き込みながら、暫定税率を維持する事を支持します(これは、私が運送業者ではないから言える事なのかも知れませんが)。
         駅員@但し、俺の血税なんだから効率的に使えよ! と釘を刺しておきます

2007年12月25日(火)
駅日誌(791) 「油地獄」

原油価格が高騰して久しいですね。このまま高価格を維持するだけなら良いのですが、もっと上がるようだとオイルショックに発展しかねません。私の愛車206はハイオク指定なので、特にガソリン代が痛いです。以前ならエンプティ近くから満タンで\6,000程だったのが\8,000くらいになっています。

また、石油はエネルギーを始めとしたあらゆる産業に影響します。かのオイルショックでは「紙が無くなる」という騒ぎになりましたが、これは、自己成就予言のメカニズムだと言えますです。「予言を出す事が、予言を的中させる原動力になってしまう」という事です。
オイルショックとはちょっと毛色が違いますが、「缶飲料のプルタブを集めると車椅子に交換して貰える」というのも、自己成就予言となりました。出だしはデマだったのですが、尤もらしさがあったため、実際に集めた人が沢山出て、その結果、「じゃあ、交換出来る事にしよう」という事になってしまいました。これはこれで、当時街のあちこちに捨てられていたプルタブが回収される事になり、且つ社会福祉にも役立ったので、自己成就予言も使いようだと思います。
使いようによって危険になったり、良いものになったりするのです。これは明晰な探偵の頭脳に似ています。名探偵の頭脳は同時に、狡猾な犯罪者としても役立つ頭脳です。その頭脳を犯罪に使うか、それと闘うのに使うか、それだけの違いでしかありません。現在石油・石炭代替エネルギーの代表格は原子力ですが、これも使いようによって良くも悪くもなります。

石油は有限の資源である以上、世界中の誰もが「いずれは希少性が高まり価格が上昇するだろう」という事は分かっていた筈なのです。しかし、本来はそれはまだまだずっと先の話の筈でした。しかし、価格が上昇する事が事前に分かっているという事は、それを先に自分の物にしておけば、儲かるのではないかと考える人が沢山出てくるのも必定。現在の原油高の理由は、その考えの人が余りに多く居たという事なのです。その投機による価格上昇が現在の原油高の最大の理由です。
では、原油価格が下がるためにはどうしたら良いか? 簡単に言ってしまえば、原油よりも効率的なエネルギーを生み出す仕組を作れば良いのです。そうすれば、相対的に原油の利用価値は下がり、投機筋の集中もなりなります。そうなると、原油価格は下がり、その分代替エネルギーの価値が上昇し、原油は貧乏人のエネルギーという形になって行くでしょう。言うは易し、行うは難しなのですが。
現在注目されているのが、ヒートポンプという仕組だそうです。大気中に存在する熱(気温が零度よりも高ければ、何らかの熱量があります)を取り込んでエネルギーにしてしまおうというものです。これって煎じ詰めれば、気温をエネルギーに転換するわけですから、地球温暖化対策にもなります。これから如何に効率化していくかが課題ですね。
                         駅員@何億年を数百年で消費する人間は非効率

2007年12月24日(月)
駅日誌(790) 「ハピバスデイ」

天皇陛下、御誕生日御目出度う御座います。ジーザス・クライスト、御誕生日御目出度う御座います。今日は天皇誕生日の振替休日で休みでした。平成天皇陛下と、ジーザス・クライストは誕生日が一日違いです。
この二つ、人によっては前者のみを、人によっては後者のみを祝ったりしますが、私としては二人ともあくまで「人間界」の大物と捉えていますので、二人ともに御祝いを申し上げようと思います。私は、戦前戦中迄は現人神と言われていた天皇陛下も、神の子と言われたジーザス・クライストも、何れも喩え偉大ではあっても人間に過ぎないと思っており、神聖視はしていません。
個人的に、人間を神聖視して崇拝するのは、非常に危険な事だと考えています。大阪出張時の帰路からちょっとずつ読み始めた「日本の10大新宗教」(島田裕巳・著)を読んでいても、まさしく人間を神格化するのは良くないなと思いました。
新宗教の教祖は大概、付け上がって自らを神としたり、或いはその宗教の起源たる既成宗教の開祖を神格化してしまいがちです。私は神という存在があるのかないのかは判断しかねますが、人間は所詮人間であり、神とは別であり、人間が神を名乗る事程邪悪な事は無いと思います。
人間は誰しも完璧ではなく、その完璧ではない人間を神聖視して崇拝すると、その崇拝対象が過ちを犯しても誰も軌道修正が出来ません。弘法も筆の誤り、猿も木から落ちる、河童の川流れ、どんな立派な人間でも完璧ではあり得ないのです。

こういう事情で、私はどの宗教にも与しません。ただ、宗教を玩具として面白がっているだけなのです。当駅では、「蜘蛛の糸」という頁にて、仏像・仏画の写真を載せていますが、言ってしまえば、信仰の対象と言うよりも、秋葉原のヲタクがフィギュアを愛でるのと同じ様な視点での捉え方をしています。私は、信仰心無き宗教好きという位置付けなのです。
なので、基督教も信仰してはいないので、別段クリスマスだから何かをするという事はありません。ただただ、天皇陛下の誕生日を祝うのと同様、ジーザス・クライストの誕生日を祝うだけなのです。
                                        駅員@寂しいな、おいorz

2007年12月23日(日)
駅日誌(789) 「師走電飾」

昨日の日誌では、折角神戸に行ったのに、ルミナリエはもう終わっていたという寂しい結果に終わりましたが、12月はあちこちでイルミネーションが施されていますね。
基督教国ではないのに、否寧ろ基督教国ではないからこそ、商業的にクリスマス電飾が発達しているのかも知れません。妙な信仰心を絡める事無く、単純に商業主義的に点けているのでしょう。こう書くと、いつもの批判癖が出たと見られそうですが、資本主義社会で生きている以上、「信仰心が高尚で、商業主義は下衆」という事はないので、商業主義でも大いに結構だと思います。
しかし、商業主義に走り過ぎる事に問題が無いというわけではありません。
「化石賞」という賞を御存知でしょうか? 日本はその受賞回数上位国なのです。受賞回数首位は、流石は世界一の大国U.S.A.です。では、「化石賞」とは何なのか? 「地球温暖化に貢献した国」にNGOから与えられる賞なのです。化石燃料を燃やす事と、頭が化石のように古い事をかけて揶揄している、言わばブラック・ジョークのような不名誉な賞ですね。先日開かれた温暖化防止バリ会議でも、我等が福田総理を始めとした日米加の化石賞トップ3の首相・大統領の写真がデカデカと載ったポスターが貼られていたそうです。

話を戻します。クリスマス時期の電飾関係って、結構なエネルギー消費なのではないかと思います。まあ、最近は白熱電球等ではなく、LEDが一般化しているので、その消費電力は瑞部の冴えられてはいるそうですが、それでも結構な消費でしょう。
最近では、一般の家庭の壁にも凝った電飾を施している家まで見かけます。一体電気代幾ら使っているんだろう……? 敬虔なクリスチャンなのか、それとも、ただのお祭野郎なのか。まあ、派手好きなのは間違いないようですが。
そこで、地球に優しい貴方、アンチクライストの貴方、わびさび好きの貴方に吉報です。イルミネーションでありながら、省エネであり、アンチクライストであり、わびさびを感じさせる代物です。
←中央の豆みたいなのがボタンになっています。

以前、量販店の特設アイディア商品売場で、面白くて思わず買ってしまった「LED線香」です。樹脂製の線香を模した棒の先端がLEDで、赤く光ります。本来の用途は火を使わずに仏壇に線香を供えられるという事なのだそうですが、こんなんじゃ御先祖様に怒られそうですね。それに、これって粋な物なのか無粋な物なのかもよく分かりません。一体どうしろと……?
                                駅員@ブッディスト・イルミネーション?

2007年12月22日(土)
駅日誌(788) 「O阪の出張」

今日のタイトルは、私の好きな作家の一人である、江戸川乱歩の推理短編「D坂の殺人事件」から取りました。乱歩が活躍した当時の東京がどんな感じだったのかが分からないので、この「D坂」は私は勝手に「道玄坂」の事だと思っていますが、実際のところは文京区の「団子坂」だそうです。
それはさておき、金曜日は仕事でO阪=大阪に単独出張致しました。その翌日たる今日は土曜日ですので、久々の関西を散策して帰ろうと思い、安いビジネスホテルに泊まりました。

全国にチェーン展開しているスーパーホテルという所なのですが、そのコストカット具合に感心しました。
先ず、ロビーに立っているは従業員は一人。チェックインと同時に宿代を払う仕組なのですが、その脇にあるATMのような精算機で払います。支払うと出て来るレシートに、数字の暗号が書かれています。持ち歩く鍵は無く、各部屋のドアにあるボタンでこのコードを入力して開錠する仕組みです。カウンター業務は随分簡略化されていると言えます。また、鍵を紛失するというリスクも回避している事になります。尚、ロビーは2階にあり、チェックイン後は鍵を預ける事も無いので、楽です。
また、部屋に寝巻を運ぶのは、客の役目。カウンターで渡されます。これは各部屋に寝巻を置きに行く手間を省いています。部屋では、冷蔵庫はOFFの状態で置いてあり、剃刀もありません。必要な人はONにするなり、買うなりして下さいという事ですね。また、電話機が無く、ロビーからの連絡は、エレベーターに伝言メモで貼られます。朝食は申し込む必要が無く、時間制限・品切れありの無料です。仕入れを安定出来るという事です。
基本的に、サービスを削りに削って効率化を図っているという印象です。TPOによりますが、今回の様に一人の時などはこんなもんで十分だと思いました。

さて、12月の関西と言えば、神戸ルミナリエです。私は嘗て神戸に住んでいた事がある旨は当日誌に書いた事がありますが、その当時は何度か見に行きました。
というわけで、三宮までやって来たのですが、記憶を頼りにウロウロしても一向に見付りません。あんな大掛かりなものを見失う筈がないのに。
実は今年は17日迄だったそうです。ガーン! 私が居た頃はクリスマス迄やっていたのに。CO2排出削減のためでしょうか? それとも人が集中し過ぎるからクリスマスは外したのでしょうか? イルミネーションがクリスマスを外してどうする!? と、言いたくなるところですが、ルミナリエは別段クリスマス絡みのものではないので、それは的外れかも知れません。ルミナリエは、阪神淡路大震災の死者への鎮魂の灯火なのです。
                                                駅員@合掌

2007年12月20日(木)
駅日誌(787) 「メンタルヘルス」

昨今、以前よりも心の病というものが一般化しています。心の病にかかって自殺する人、入院する人、休職する人が沢山いるそうです。
そして、それは私の勤め先でも例外ではありません。自殺こそありませんが、休職なんてケースは稀にあります。原因は過度のストレスだと言われています。先日より、私の職場で全従業員一人一人に、精神科医が面談をするという事が行われています。
どうも私の勤め先は、ストレス度合いが比較的高めだそうで、私もそれを受けました。私は私で、ストレスが結構溜まっているみたいですね。ただ、私の場合は恐らく、そのストレスがリミットまで溜まっても、鬱方向ではなく、躁方向にブレイクしそうな気がします。
現状、言いたい事はズケズケ言うようにしており、小出しにキレる事でリミットまで溜まるのを防いでいる状態にあるのだと思っています。それでも言いたい事を全部言っているわけではなく、飲み込んでいる事もまだまだあるので、それが溜まりに溜まったら、周囲の人間を暴風圏に放り込み、上下関係一切御構い無しに、罵声の嵐をぶっ放してしまう事でしょう。もしそうなったら、私はスッキリしても、周りに一体何人の鬱患者が出てしまう事やら……

しかし、最近心の病が増えたという事は、昔よりも現在の方がストレス源が増えているという事でしょうか? それとも、ホモサピエンス全体として、ストレス耐性が落ちて来ているのでしょうか? 思うに、その何れもあるのだとは思いますが、最大の要因は、単純に「今までは隠れていただけで、それが顕在化した」という事だと思います。
即ち、嘗ての世間は、精神疾患に対する認識が弱く(怠け病呼ばわり、等)、或いは偏見が強く(キ印呼ばわり、等)、仮に心の病に罹ってもそれが表に出されていなかったのではないかと思います。現在は認識が広がっていますので、精神科医にかかる事が奇異な目で見られる事は少なくなりました。

一方で、一般化したという事は、その症状についての知識を身に付ければ、それに託けてサボる事もやろうと思えば出来てしまえる状態にあるとも言えるのが恐ろしいと思います。世の中には悪い奴がいるもので、痴漢が問題になれば痴漢冤罪で儲けようと企む外道がいますので、それと同様に、精神病を装う外道がいても不思議ではありません。
殺人容疑者に対する弁護において、「精神病である」という事を掲げる事を中心的な法廷戦術としているケースが多いのも、ニュースでよく見る話です。私の中では、罪人は罪人だと思うので、これが嫌いなのは、普段当日誌で書いている通りです。
では、犯罪絡みではなく、怠け心で精神病を装う輩はどうか? これはこれで非常に下衆な行為だと言えます。痴漢冤罪も同様ですが、痴漢をされたと装う事も、精神病だと装う事も、真の痴漢被害者・精神病患者を更に苦しめる事になります。
こういう真に苦しんでいる人間にどんな迷惑がかかるかも考えずに、自らの楽ばかりを追い求める下衆野郎どもが跋扈する事、これもまた上記のような私の怒りを溜める元にもなっているのです。
                                  駅員@まだまだ修行が足りません

2007年12月19日(水)
駅日誌(786) 「撲滅という言葉」

本日の業務は、車を運転してあちこち移動して行う仕事でした。一人で運転して、一人で目的地に向かい、一人で働く、という形でして、運転中はCDで好きな音楽でも聴きながら……と思っていたのに、CDを車に持って来るのを忘れました。いや、普段は何枚か入れてあるのですが、何かの曲で歌詞カードを見たくなったため部屋に持って行き、それっ切りになっていたのです。
という事なので、無音で206のエキゾースト・ノートばかり聞いていてもつまらないので、ラジオを聞きながら運転するという事になりました。そのラジオの中で、「飲酒運転撲滅キャンペーン中」と言っていたのを聞いて、ふと思った事があるので、今日の日誌はその話題です。

「撲滅」と言われる物事は、色々あります。飲酒運転の他にも、労災撲滅、海賊版撲滅、貧困撲滅、エイズ撲滅……等々。なるほど、思いついたものは何れも世の中を良くしようとしての活動であり、大いに賛成です。
しかし、ふと「撲滅なんて言葉は、随分乱暴な言葉だよなあ」と思ったのです。だって、「撲って滅ぼす」わけですからね。実際は、「世の中から一切無くしてしまおう」というニュアンスなのですが、「撲滅」だと、何となく「釘バットか何かを持って襲い掛かる」かのような字面に見えてしまうのです。例えば、「暴力団撲滅」なんて、何だか「毒を以って毒を制す」ような印象を受けてしまいます。
何かもっと良い言葉は無いのでしょうか? 「一掃」とか「浄化」とか、どうでしょうか?
いやいや待てよ……「一掃」だと「一層」なんて冗談になりそうですし、「浄化」はより怖い印象もあります。「民族浄化(エスニック・クレンジング)」なんて恐ろしい言葉もありますしね。
それ以前に、ソフトな言葉だとどうもピリッとしないというのが正直な所なのでしょうか? 「撲滅」というちょっと強めの言葉を使う事で、「俺たちは本気なんだ」と主張しているのかも知れません。
                               駅員@私が撲滅したいのは、偽善者!

2007年12月18日(火)
駅日誌(785) 「バタバタ師走」

忙殺。今年の年末は仕事が結構いっぱいいっぱいになってきました。どうしても一日がかりになってしまう仕事が多く、長時間拘束度合いの低い仕事を他にグイグイ移動させて、パズルのように一日仕事を嵌め込む隙間を捻出するわけなのですが……
もうあかん!! 先週末にと同じく今週末の三連休も少なくとも一日は「勝手に休日出勤」をしないと、12月の業務計画遂行が覚束無いです。

まあ、私はクリスマスも何も予定が無いので、良いのですが……わ、寂しいなあ、おいorz
                        駅員@ちょっと疲れているので今日はこれくらいで

2007年12月17日(月)
駅日誌(784) 「エコプロダクツ」

先週の13日(木)〜15日(土)の三日間に渡り、東京国際展示場(ビッグサイト)にて、エコプロダクツという展示会が開催されました。年一回開催され、今年で四年目だそうです。私の勤務先もその出展企業なので、その内の丸一日、私も展示会で説明員として立っていました。
企業の展示会というと、スーツを着たサラリーマンがウロウロしているのが普通ですが、この展示会では、社会科見学の児童や生徒が多いです。下は小学生〜上は高校生くらいまで、揃いの帽子あるいは揃いの制服の集団を沢山見かけました。環境というテーマは、今や社会科見学の大きなテーマの一つなんですね。
出展企業側の方もこれは重々把握していて、子供にも楽しめる体験型の展示が多かったです。特に多かったのはクイズラリー形式ですね。その穴埋めも平仮名や片仮名の物が多かったようです。

私が立っていた所は、飲食物も多少置いてあったので、不用意に子供に与えてしまうと、その子と同じ学校の集団が大挙して群がり、大変でした。
まさか「おるぁ!! 糞餓鬼どもが!」などと口にするわけにはいきませんので、爽やかな(?)笑顔で対応です。
喩え相手が商売に繋がらないであろう子供であっても、蔑ろにするわけには行きません。
日本最大のファーストフードチェーン「マクドナルド」を見て下さい。
あの会社があれだけ成長した背景には何があるのか? それは子供の囲い込みに成功した事が大きいと思います。キャラクターを揃え、土地のある店には遊び場をも備え、更には頻繁にアイテムの入れ替わるハッピーセット……いずれも子供をターゲットにしています。
先ず、子供が店に行きたがるという事は、畢竟親が一緒に来るという事ですし、また子供の頃にマクドナルドが好きになれば、その後小遣いが自由になる小学校高学年〜中学生くらいまでは圧倒的な支持を保ち得るのです。
個人的にはマクドナルドにどっぷり浸かるというのも感心はし兼ねますが、認知度を圧倒的に高めているのは、この戦略が功を奏したためでしょう。そして、これは一朝一夕で築けるものではありません。あくまで、企業の長期戦略なのです。

……長期戦略と言えば、この展示会の眼目である「環境」も長期的イメージ戦略だと言えます。では、日本で「環境に良いイメージの企業」はどこか? その問いの答えの首位は「トヨタ自動車」だそうです。元来普通のレシプロエンジンでも世界トップクラスの燃費を誇りますし、ハイブリッド車の積極的な展開も貢献しています。
しかし、考えてみると、石油を燃料とする車両を、世界で1,000万台に迫る勢いで生産していますので、日本でもトップクラスの石油大量使用・CO2大量排出企業だという見方も出来ます。にも関わらず環境に良いイメージを持たれるのは、生産から走行まで一台あたりの石油使用量やCO2排出量を抑えるための弛まぬ努力も無論ありますが、矢張りイメージ戦略の上手さなのです。

……イメージと言えば、こんなおどろおどろしい地獄三丁目駅を運営し、且つ見た目も比較的強面の(不本意ですが、チンピラとかヤクザとか言われる事があります……)私のイメージは、展示会で子供を相手に色々話している様子とは全く繋がらないなどと言われそうですが、意外や意外、子供の相手をするのは実は得意だったりします。
                         駅員@今日のビジネスで環境は無視できません

2007年12月16日(日)
駅日誌(783) 「王道と覇道」

人間の生き様には、「王道」と「覇道」という二つの道があります。
その出所は、儒教における政治理念にあります。王道は、有徳の君主が仁義に基づいて国家を統治する事を指した言葉です。覇道は、武力や権謀をもって支配・統治する事を指した言葉です。儒教道徳では、「王道」の方を国家の理想的統治形態としています。
その一方で、安直な道、楽な道、これをやれば間違いないという道を「王道」と言う事もあります。「学問に王道無し」の「王道」はこちらの意味で用いられています。

しかし、世の中そうそう徳を以って統治することなど簡単に出来る事ではありません。現在の世界の国々の統治形態の多くは、覇道で統治されていると言えます。独裁国家も、法治国家も、覇道の一形態に過ぎません。この有様を見ると、所詮人間は性悪説なのではないかと思えてきます。儒教が訴える性善説が正しいとしたら、王道による統治があって然るべきだからです。
ところが、覇道で作られた制度の中にも王道は存在します。そして、王道を渇望している人が多いというのもまた事実。自我を薄めてでも何らかのカリスマに縋りたい人々がいるものです。
王道が理想だと言うのは分かるのですが、渇望するあまり、そのカリスマの真偽を見抜けずに盲信してしまう人の多い事多い事。これは、インチキ宗教に嵌まっちゃう人がいまだに世の中に沢山居る事を見れば明白です。
一方、カリスマとして担ぎ上げられた方は、期待されるあまり、既得権化した支持を守るため、自らの理想を放棄してでもその期待に沿おうとしてしまいます。元来、理想を追い求めていた姿に人々は支持を寄せていた筈なのに、いつの間にかその理想は蔑ろにされ、ただ支持者の便宜を図る代弁者に成り下がります。これこそが、議会制民主主義に欠陥が発生するメカニズムです。

「王道」は、矢張り真の君子が現れないと成り立たない統治形態なのだと言えます。真の君子は、理想を追うために民の顔色を伺いません。民に負担を掛ける事になってもそれを実行し、且つその負担が何れは民の幸福に繋がるという統治を行えます。
私は、自分自身がそんな聖人君子であるという自信は毛頭ないのですが、それでも、喩え人に非難されようとも、自らが正義だと思う道を歩みたいと常々心掛けています。だとしても、その私が正義だと思う道は、見る人によっては邪悪な道なのかも知れません。
そう見られるのならば、「王道」でも「覇道」でもなく、「邪道」で行くのもアリかな、と思っています。冒頭で述べたもう一つの意味の「王道」(安直な道)を盲信してしまうよりはまだマシでしょう。
                                      駅員@或いは修羅道かも?

2007年12月15日(土)
駅日誌(782) 「The Shotgun Panic!」

長崎は佐世保のスポーツクラブに、迷彩服にフルフェイスのメットを被った男が闖入し、散弾銃をぶっ放しました。軽装で無防備な人々に対し武装して襲い掛かるとは、卑劣極まりない。もし本気で恨み、殺したい相手が居るのなら、対等な状態で戦え、と。それに、関係の無い人間まで巻き込むな、と。
容疑者の足取りを追うと、散々人をぶっ殺した挙句、自殺してしまったそうです。要は、キ印の人だったのでしょうね。何でも普段から奇行が目立つ人物らしく、銃を持って街中を闊歩したり、夜中に民家のチャイムを押したり、随分クレイジーな事をしていたそうです。

だから、私は日頃から応報刑論を主張するのです。この男がもしも、自殺せずに逮捕された場合、精神鑑定を経て下手をすると無罪です。こんな事で世間が納得すると思うな!
山口県光市の事件でもそうです。死刑廃止論者の弁護団は、一体何のために人殺しを庇うのか? 偏にあの弁護士連中は善悪になんか興味が無く、自らが死刑が嫌いだからそれを訴えるだしに殺人者を使っているに過ぎません。穿った見方をすると、死刑廃止論者は「もし自らが罪を犯したら、死刑になりたくない」がために死刑廃止を訴えているのではないかとさえ思えてきます。自らが故意犯の罪人にならないという確固とした自信があれば、死刑等恐るるに足りない筈です。
本来は、人々の心に「悪事を働く事は、物凄く損な事である」という認識を刻み込めば良いのです。それが抑止力になると思います。法律学者、犯罪心理学者の中には、厳罰化は抑止力たり得ないという見解を持っている人もいますが、そんな事は無いと思います。更に言ってしまえば、最高刑が死刑というのが悪い。それだと、死んでも構わないという自暴自棄の人間には抑止力になりません。毎日生爪を剥がしたり、そこに唐辛子を擦り込んだりといった、惨たらしい苦痛を延々与え続けるくらいの、背筋も凍るような刑があれば良いのです。罪人の人権を認める事こそが、抑止力を失う事なのだと思います。或いは、Dead or Aliveで指名手配し、民衆に狩らせても良いと思います。他者の人権をこの上なく蔑ろにした者に人権を認める必要があろうか。最も重んじられるべきは「公共の福祉」なのです。

仮に精神鑑定で無罪になった者でも、地獄にて永遠の苦しみを味わうので、それが生きている間か死んでからかの違いだけなのですがね。
                駅員@地獄は混んでいますが、極悪人はいつでもWelcomeです

2007年12月14日(金)
駅日誌(781) 「女の敵」

始めに御断りしておきます。このタイトル「女の敵」とは、私の事を指しています。即ち、今日の日誌で書く内容は、人によっては不愉快かも知れません。今回はその事を御承知の上で御読み下さい。

実は今日、電車の乗換で、発車ベルが鳴っている電車に何とか間に合って乗るという場面がありました。乗れた事に安堵し、立ちながら本を読み始めたのですが、私の立っている所からふとホームに目をやろうとした時に、車内の知らない女性と目が合いました。こちらを何やら厭な目付きで見てています。何だろうと思ったものの、そのまま本に目を戻したのですが、暫くして鉄道職員に声を掛けられました。
そうなのです。その車両は女性専用車両だったのです。職員に注意されて、已む無く隣の車両に移りました。私のその時の心理状態は、「クソッタレが! この俺様に恥をかかせやがって!! 女性専用車両に乗る気なんて毛頭無いわ!!!」です。こう書くと、「何を言うか。過失とは言え、女性専用車両に乗ってしまったお前が悪いのだ」と言われそうです。
しかし、敢えて言おう、「異議あり!」と。
法理論には、過失相殺という概念があります。即ち、一方が過失を犯したものの、向こうにも過失がある場合には過失が相殺され、罪の度合いが変わるというものです。交通事故で「10-0で向こうが悪い」だの「向こうが100%悪いのに、結局は6-4になりそうだ」だのと言うのが、丁度この過失相殺に相当します。
何が言いたいのかと言うと、私が女性専用車両に乗ってしまったのには、私の過失も認めざるを得ませんが、鉄道会社が設定したこの女性専用車両の位置も悪いのではないかという事です。間違って乗るとは考えにくい位置にしておけば、こんな事にはならないわけです。「鉄道会社は未然に防ぐ努力を怠っている」言い換えれば「女性専用車両を真に女性専用にする努力を怠っている」と言いたいのです。

今回の過失乗車は東京メトロ有楽町線の有楽町駅で起こりました。この駅には、千代田線・日比谷線・都営三田線・JR山手線への乗換があり、且つ有楽町線のホームの和光市方向の端には、その乗換のうち3つ(千代田・日比谷・三田)が集中しています。非常に混雑します。特に朝夕の時間帯は人が渋滞してしまいます。にも関わらず、その3つの乗換がある端の車両が女性専用車両なのです。こんな事では、私のような乗り間違いは言うに及ばず、乗り遅れや運行遅延を招きかねません。
では、この路線の他の駅ではどうなのでしょうか?
有楽町線の駅は、Y01和光市〜Y24新木場まであります。女性専用車両が設定される時間帯が朝の出勤時間帯なので、その時間帯に乗り降りの多い駅をピックアップします。私の経験上では、Y06小竹向原、Y09池袋、Y13飯田橋、Y14市ヶ谷、Y16永田町、Y18有楽町、Y19銀座一丁目。この辺りだと思います。
では、それらの出口&乗換に向かう位置はどうなっているか。幸いにも、東京メトロはどの車両に乗ればどの駅でどの位置になるかを示した図を公開しています。その図によると有楽町線は10両編成で、1号車が新木場方面〜10号車が和光市方面を指しています。
【Y06小竹向原】では、【2/3/10】が乗換&出口。
【Y09池袋】では、【1/4/6/8/9】に散らばっています。
【Y13飯田橋】では、2/5/7/8/9-10ですが、特に【7/8】に四路線乗換が集中。
【Y14市ヶ谷】では、【3/5/10】。
【Y16永田町】では、【9/10】に4路線乗換集中。
【Y18有楽町】では、1/3/10ですが、【10】に3路線乗換集中。
【Y19銀座一丁目】では、乗換はなく【3/4/10】が出口です。
ほら見た事か! 10号車付近に混む乗換が集中しているではないか!! 10号車は女性専用車両にするべきではないのだあ!!! ……もしかしてレディーファーストって事なのでしょうか?
しかし、よく考えてみて下さい。例えば、公衆トイレの入口は圧倒的に女性用が奥にあるケースが多いです。それは何故なのか? 女子トイレに男が間違って入って来てしまうリスクを回避すると同時に、男がそっちに向かうだけで不審になるので、牽制が効くからです。
前述の図によると、1号車には比較的乗換口が少ないです。ならば、そっちを女性専用車両にするべきではないか! だって、女性は別段どの車両に乗っても咎められるわけではないので、どうしても女性専用が良いという人は、多少歩いてもそちらを選ぶでしょう。
ほら! 俺は悪くない! しかし、こんな事で長々と……みみっちいなあ。

                       駅員@それだけ自らの過失を気にしているって事で

2007年12月13日(木)
駅日誌(780) 「Rosso」

今日、横浜国際総合競技上にて「FIFAクラブワールドカップ」の準決勝第二戦が行われました。そのカードは、アジア代表浦和レッドダイヤモンズ VS 欧州代表ACミラン。
レッズはその前のアジア準代表のセパハンには勝利を収めたものの、欧州代表には一歩及ばずでした。しかしながら、その得点は1-0ですから、惜しくも敗れたと言っても差し支えないでしょう。日本のサッカーもだんだんレベルが上がって来ているという事が伺えます。
決勝戦は当初の想定通り、そのACミラン VS 南米代表のボカ・ジュニアーズとなり、3位決定戦は浦和レッズ VS アフリカ代表のエトワール・サヘルとなります。

さて、タイトルの「Rosso」は伊語で、赤を意味します。浦和レッズはその名前の通り、赤がチームカラーであり、対するACミランは赤黒がチームカラーです。ACミランは、イタリアではロッソ・ネリ(赤黒軍)なんて呼ばれていたりしますので、今回は赤対決だったと言えます。スポーツの世界では、赤は随分積極的に使われる色です。心理学的にも人の心を奮い立たせる色なのだそうです。
ACミランの本拠地であるミラノから南西に、モデナという所があります。そこでも赤をチームカラーにしたスポーツチームがあります。そっちは、スポーツはスポーツでもモータースポーツ。そのチームを擁するメーカーのイメージカラーでもあります。フェラーリですね。
そのフェラーリF1チームの元エースドライバー、ミハエル=シューマッハは赤い皇帝の異名を取ります。
そのシューマッハが、実家に帰省する家族を空港までタクシーで送り、その帰りにタクシードライバーに「俺に運転させてくれ」とタクシーを自分で運転して空港から戻ったそうです。
最速のタクシードライバーでしょう。いや、勿論映画TAXiのような走りをした筈もなく、交通法規を守った運転だと思うのですが、それでも、シューマッハの隣に座り、且つ運転業務が一つ減り、更にチップまで弾んで貰えたとなると、非常に幸運なタクシーだったと思います。
                                    駅員@今回は赤でまとめました

2007年12月12日(水)
駅日誌(779) 「Red Bonze」

2004年に日本共産党と懇意にしている僧侶が、東京都葛飾区のマンションの1階集合ポストではなく、各戸の玄関先に迄ビラを投函しに、マンション内をウロウロしていたのを住民が不法侵入罪として訴えた事件の控訴審の判決が出ました。
第一審は無罪判決だったのですが、控訴審で逆転有罪判決となりました。争点は「思想信条の自由」「表現の自由」という憲法に関わる案件なので、最高裁への上告もあり得るのではないかと思います。
今書いた通り、「思想信条の自由」と「表現の自由」を第一審は重んじたわけですが、控訴審ではそれよりもプライバシーや住民個々の財産権を重視した事になります。特に、マンションの入口に「ビラ配りの無断侵入を禁ずる」旨の張り紙があったにも関わらず入って行った事が不法行為の構成要素と見なされたわけです。即ち、関係者以外立入禁止のエリアに無関係者が故意に侵入した事と同じ事なのだと思います。
私は真っ当な判決だと思います。だって、思想信条・表現の自由は、あくまで他人の権利を侵害しない範囲で保護されるものですから。これが無罪なら、ピンクチラシをガンガン放り込む事も電話ボックスに貼りまくる事もOKという事になり兼ねません。

それにしても、某学会以外の僧侶で左寄りの、それもあろう事か共産党の関係者が居たとは驚きですね。そもそも、共産党の基本理念はマルクス主義に端を発しています。そのカール・マルクスは、「神など存在しない」として宗教を否定しているのに、僧職で共産党関係者だなんて、その脳味噌は支離滅裂だと言えます。はっきり言って、この僧は破戒僧です。そんな坊主に葬式を挙げられた檀家は報われません。
こんな変てこな僧侶を擁するのは一体どこの宗派でしょうか? 調べてみると、浄土真宗大谷派だそうです。こんな事だから自力本願系の宗派に「これだから、大乗の輩は」等と言われてしまうのです。

然りとて、某学会はまだマシかと言うと、そんな事は断じてあり得ません。私は公明党は共産党よりも遥かに嫌いです。政教分離を非難しているくせに自らの政党が政教不分離だなんて、政党そのものが支離滅裂なのです。
共産党の方は、政党自体は比較的筋の通った論理を持っているので、支持は出来ずとも理解は出来ます。本来は、仮に人間が全て勤勉な存在であれば、共産主義は理想郷の社会だと言えるとも思います。ところがどっこい、怠ける者が出てしまう以上は破綻は免れないのがネックなのです。
                     駅員@思想云々よりも筋が通らない事が嫌いなのです

2007年12月11日(火)
駅日誌(778) 「店員の質」

買物をしたり、外食をしたりする時、何を重視しますか?
挙がってくるのは、価格帯、売り物の質、立地、店舗の作り、店員の質……といった所でしょうか。まあ、どれがと言うより、これらの全てを勘案して入る店を選ぶのだと思います。

その中でも今回は、店員の質について書こうと思います。これは以前にもコンビニ店員やファーストフード店員について書いた事がある事なのですが、結構重大な問題です。特にコモディティ化した(有り触れた物となった)商品を取り扱う店においては、こんなに重大な問題はありません。
「他に無い価格」「他に無い売り物」「他に無い店舗」「他に無いコンセプト」「そのあたりにはその店の他に無い」……こういう条件が無い限り、店員の質が最重要項目となります。

「そりゃ当り前だ」という声が聞こえて来そうですが、この世の中、サービスや商品は随分行き渡っていると思います。
例えばコンビニ、例えば一人での外食。都市部であれば、ほんのちょっと移動すれば他の選択肢がいくらでもあります。昨今、様々な業種に於いて「差別化」がキーワードになってはいますが、それらはあくまで各業態の枠内での差別化であり、余程の策で無い限りは、コモディティ化の波からは逃れられません。

価格帯や売り物等は外からでも多少は雰囲気で分かります。しかし、店員の質は一回その店を利用しないと分からないのが厄介です。また、時間帯や曜日によっても大きく違うのだと思います。
今日の昼は、チェーン店で蕎麦を食べたのですが、この店員の鈍臭さと言ったらもう。
先ず、簡単な注文をしただけなのに、ハンディターミナルを使いこなせていないのか、手間取るわ、間違うわ。我々は皆温かい蕎麦なのに、蕎麦湯を持って来て、ドンと私の目の前の圧迫感のある所に置くわ。……とは言うものの、まだ経験の浅い店員ならしょうがない事なのかも知れないと思います。まあ、鈍臭いのはまだ許せます。
腹立たしいのは態度の悪い店員。夜間のコンビニに多いですね。私の虫の居所が悪い時に、店員らしからぬ態度を取った場合は、思わずメンチ切ってしまったり、舌打ちしてしまったりする事もあります。
「大人気ないぞ」という声が聞こえてきそうですが、私の中では、売り手と買い手のヒエラルキーは絶対だと思っています。勿論、立ち読みだけして何も買わない者を客として丁重に扱えと言っているわけではありません。金を払う者はあくまで客であり、その代金の中には接客というサービスの対価も含まれている筈だと思うのです。正統性のある範囲内において、客として毅然とした態度を取るのが自然だと思います。
かく言う私も、学生時代初期は一人暮らしに慣れず、新聞屋あたりの横柄な態度にもその時その場で上手い切り返しが出来ず、帰った後でその態度に対して立腹していたものですが、最近は電話でも訪問でも何らかの売込み・勧誘については何でも先ずは横柄に出る事にしています。
                       駅員@勿論、仕事上ではいきなり横柄は無いですよ

2007年12月10日(月)
駅日誌(777) 「死刑の是非」

先日、3人の死刑囚に対して死刑が執行され、法務省はそのそれぞれの罪状等について情報を公開致しました。いつの日か絞首されると分かっていて、日々を暮らす死刑囚に掛かるストレスは如何程か……それは私の想像を遥かに超えるものでしょう。
世の中には死刑廃止論者も数多く居ますが、彼等の主張も大いに理解出来ます。しかしながら、教育刑論よりも応報刑論寄りの考え方の私としては、死刑は矢張り存続するべきだと思います。否、寧ろ余りに凶悪な犯罪者に対しては、公開処刑や獄門があっても良いとさえ思っています。
死刑囚の辛さに理解を示しながら、何故そこまで強硬に私は死刑賛成なのか。それは矢張り、罪にはそれ相応の罰が下って然るべきだと思うからです。そして、極悪人に関しては、その死刑を公衆の面前に晒す事で、犯罪者予備軍に恐怖を与え、彼等を抑止する事になり、これぞ真の意味での教育刑(罪人への教育ではなく、これから罪人になり得る人間への教育)だと言えるのではないかと考えます。
こう書くと、次に出て来る議論は「犯罪者を見せしめにするなんて、人権侵害だ!」という意見です。しかし、他者の人権を蹂躙した人間に果たして人権を認める必要があるのでしょうか? 私は世の中は「権利と義務は表裏一体で成り立っている」と思っていますので、義務を完全に無視した人間に、権利など無いと思うのです。
その次に出て来る議論は「人間が人間を裁くのはおこがましい事であり、神への冒涜だ。人間が裁かずとも悪には天罰が下るのだ」という意見です。なるほど、人々を裁くべきは神である、というのは確かに理想郷だと思います。しかし、それはあくまで理想に過ぎません。神は、我々人間が思う程、人間一個体の活動に興味があるとは私は思えません。神という存在がいるとしたら、その目に映る我々人間は、人間の目に映る蟻の群れ程度なのだと思います。神が人間をいつも見守っているなんて考えの方がおこがましく、思い上がりも甚だしいのではないかというのが私の考えです。
もし、本当に神が地球を見守っているとしたら、真っ先に滅ぼされるのは人間でしょう。他の生物を好き勝手に支配し、惑星を蝕む罪深き人間は、地球や他の生物にとって災い以外の何者でもありません。

そうである以上、人間界の規範は人間が作り出す物であり、矢張り人間の思考回路での善悪に頼らざるを得ないのだと思います。

色々と死刑囚諸氏に対し、厳しい事を書きましたが、それでも死刑囚が本心から罪を悔いて、被害者に対し心から申し訳なく思っているのなら、せめて安らかな死を、と思います。それに対し、その様子が微塵も見られない者、心神喪失を装う者などは、森鴎外「山椒太夫」のラストの鋸挽きのように苦しませるしか、遺族の気持ちを納得させる事は出来ないのだと思います。
また、心神喪失の偽装か否か以前に、心神喪失ゆえに無罪になるちうのはどうも私は腑に落ちません。だって、人間としての理性が欠けているから無罪だと言う理屈だと、野生の熊が人を襲った時に容赦なく銃殺または薬殺されるのは、整合性が取れていないではないか、と思うのです。
理性の無い存在を無罪とするのなら獣も殺されるべきではないし、逆に理性の有無に関係無く危害を加えた事を罪悪と見なすのなら、獣同様に心神喪失者も裁かれて然りだと思うのです。
                                駅員@うむー、危険思想でしょうか?

2007年12月9日(日)
駅日誌(776) 「大は小を兼ねる?」

先日の駅日誌(773)「もったいないおばけ」でテラ豚丼騒動を批判したばかりで恐縮ですが、実は私も「特盛」とかそういった類は面白いのでよく買ってみます。単にそれだけで一食完結出来て楽チンだから、という事もありますが。
それにして、最近は健康ブームの反動で、食べ物のメガブームですね。大きい物というのは、それだけでインパクトがあります。町おこしのために商店街で「最長巻き寿司、ギネスに挑戦」なんて企画をやっているのも、山形の芋煮会で巨大な鍋で煮ているのも、テレビの映像だけでインパクトが伝わります。瀬戸大橋や明石海峡大橋等を下から見上げるのにも、矢張りインパクト大です。
そんなわけで、当日誌でも過去にジャンボサイズの食品を結構取り上げています。
2005年4月27日の駅日誌(18)「プリン地獄」2006年2月6日の駅日誌(257)「味噌と珈琲A」2006年6月27日の駅日誌(343)「特盛アイス」2007年2月22日の駅日誌(541)「プリン地獄再び」2007年6月30日の駅日誌(647)「ポムの樹」、ざっとこの辺りがそうでしょうか。

他にもメガマックにちょっと触れた事もあった覚えがあります。さて、今回はそのメガマックに触発されてすき屋が発売した「メガ牛丼」についてです。冒頭に書いた「テラ豚丼」の発想の元になったものでもありますが、こちらは歴とした商品。というわけで、実食致しました。
写真の煙草はサイズ比較用です。
大盛りのごはん+並盛の3倍の具で、\680也。食べ応えがありましたが、通常の牛丼でももっと御飯を食べられるくらいの私は、白飯に対する肉と汁の比率が大き過ぎて、白飯を追加注文したいくらいでした。しかし、そこまですると、満腹過ぎるし……基本的に並盛りのバランスがベストバランスだと思うので、そのバランスのまま相似拡大だったら良かったのに、と思いました。これでは大は小を兼ねるとは言えません。これなら、並盛を2杯食べた方が良いと思います。さらに企画を煮詰めて磨きをかけてくれる事を期待致します。

さて、大は小を兼ねないという例をもう一つ。
昨日のゴルフは先輩宅に前泊したのですが、その先輩は母と二人暮しの一戸建てに住んでいます。それも比較的新しい家でして、1階と2階にトイレとキッチンが1基ずつあるのです。いわゆる二世帯住宅です。部屋数も多く立派な家なのですが、その家に2人だと勿体無いと言うもの。これでは大が小を兼ねていません。
また、トイレや風呂や来客用寝室を使わせてもらって気付いたのですが、電灯のスイッチの位置が低い。暗い所に入ると先ず手探りでドアの脇のスイッチを探すわけですが、私の手探りよりも随分低い位置にスイッチがあるのです。
はたと思い出したのは、その先輩の母上が小柄だった事。「そうか、このスイッチ位置は母上の体格に合わせての設計なのだ」と思い当たりました。スイッチが低過ぎるというわけではないので、これは寧ろ小が大を兼ねていると言えるでしょう。
もうその先輩の弟は結婚し独立しているそうですが、こら! 兄貴! いつまでもこの小柄な母上に心配をかけるなよ! と言いたくなりました。
                            駅員@私も他人の事は言えないのですがね

2007年12月8日(土)
駅日誌(775) 「寒中ゴルフ」

纏ガイ狙振弾(ガイは、「亥欠」)。
棍法術最強の流派として名高い、チャク家流に伝わる最大奥義。この技の創始者・宗家呉竜府(ご・りゅうふ)は、正確無比の打球で敵をことごとく倒したという。
この現代でいうゴルフスイングにも酷似した打撃法は、運動力学的観点からいっても、球の飛距離・威力・正確さを得る為に最も効果的である事が証明されている。
因みにゴルフは英国発祥というのが定説であったが、最近では前出の創始者・呉竜府の名前でも分かる通り、中国がその起源であるという説が支配的である。
(民明書房「スポーツ起源異聞」第一章「武術から生まれたスポーツ」より抜粋)

……と、上記は宮下あきら「魁!男塾」よりの抜粋です。

この漫画では、物語中の技や決闘方法の解説に、この民明書房なる架空の出版社の出版物という体裁を取っています。昔は、「民明書房という出版社が本当にあり、その本に本当に書かれている事だ」と思っていた子供も多かったようです。

さて、その呉竜府が編み出した技が起源と言われる(?)ゴルフ。今日は勤め先の人たちとゴルフに行って来ました。それも私自身は丸2年ぶり(「丸」という事は2年前も冬でした)のゴルフです。私はどうもスポーツは道具を多く使うものほど苦手なようで、クラブが何種類もあるゴルフは勿論苦手なのです。酷いスコアでした。いや、それよりも、他のスポーツに比べて「心技体」の「心」の比重が大きいせいでしょうね。私は存外メンタルが弱いのです。練習は勿論ですが、精神修行も必要かも知れませんね。

ゴルフと言えば、早朝から出かける事になり、早起きも大変です。今回は、私の住んでいる所よりゴルフ場に近い先輩の家に前泊することになりました。
金曜日は仕事を早く切り上げて練習場で練習し、その足でそのまま先輩宅へ。その先輩は車を持っていないので、私の車が足となるという意味合いもあります。というわけで、運転手たる私は、ゴルフ場でも麦酒一滴さえも飲まず帰宅となりました。
                     駅員@朝夕は寒かったですが、昼間は暑いくらいでした

2007年12月6日(木)
駅日誌(774) 「やってもうた!」

私は3年前から、年賀状には木版画を作成しております。昨年は身内に不幸があったため、木版画ではなく喪中葉書となりましたが、来年の年賀状で木版画は第三作目になります(酉作成、戌作成、亥パス、子作成予定)。11月下旬から図案を考えて、ようやく彫り始めた所なのですが……やってもうた!

何をやってもうたのかと言うと、それは版画作成の手順を交えて説明しましょう。
@図案を考える。
A葉書サイズ枠に濃いめのペンで図案を描く。
Bその上に書道の半紙を置き、同じく濃いペンか墨汁で図案をなぞる。
Cそのなぞった半紙を裏返しにして、板に糊で貼り付ける。
D乾燥したら、半紙の図に沿って彫る。
E彫りあがったら残った半紙を洗い落とし、板を乾燥させる。
F板の上に版画絵の具を薄くむら無く塗る。
Gすぐに葉書の裏をそこに押し付け、馬簾で擦る。
H出来上がり。(多色刷りの場合は各色毎に版を作り、手順を繰り返す)

このCに於いて初歩的なミスを犯しました。即ち、裏返し忘れていたのです。

このまま刷ると、文字の類が左右逆になってしまいます。1年のブランクでうっかりしてしまいました。やり直し……orz
まあ、当初の図案もちょっと気に入らない部分があったので、より良い物を作る機会を得たと思って年末迄に何とか仕上げようと思います。
しかし、参った事に今週末土曜日に丸2年ぶりくらいのゴルフ(私はゴルフは滅茶苦茶下手糞)があり、その次の土曜日は仲間内での些細な忘年会があります。こりゃあ、空いている時間を有効に使ってサクサク作成しないと、年末に間に合わないぞ!
                                      駅員@師走は矢張り慌しい

2007年12月5日(水)
駅日誌(773) 「もったいないおばけ」

昔、AC公共広告機構のCMで、「まんが日本昔話」風のシリーズがありました。調べてみると、以下5作のシリーズ物になっていました。「もったいないおばけ」「ツンツン娘」「お手伝い狸」「仲良し地蔵」「ごめんの鐘」。うーむ、どれも見た記憶があります。
ACのCMってクオリティ高いですよね。通常のCMだとクライアントがありますから、そのクライアントのPRがCMの主眼になります。クライアントが無い分、自由に良い物が作れるのかも知れません。

その日本昔話風CMが、5作も続いたのは、何より一発目が好評を博したからでしょう。それが本日のタイトルである「もったいないおばけ」なのです。子供が「あれが嫌い、これが嫌い」と言って食べ物を色々と残した晩、夢に大根や人参や茄子なんかの顔をした妖怪が現れて「勿体無い、勿体無い」と子供たちを脅かして、翌日から子供たちは食べ物を残さなくなったという筋です。

「勿体無い」と言えば、吉野家のアルバイトが、ニコニコ動画(YouTubeのような動画投稿サイト)に「テラ豚丼」と「テラ生野菜」を作っている動画を投稿して処分されたそうです。
動画では、特盛用の丼に御飯をよそった上に、溢れんばかりの(いや、溢れています)豚丼の具を山の様に盛った「テラ豚丼」、サラダにコーンをてんこ盛りに乗せた「テラ生野菜」を作っている様が映っています。これが密かに話題となり、それを察知した吉野家はバイトを処分し、自社サイトに謝罪文を載せました。
すき屋の「メガ牛丼」に対抗しての事なのでしょう。それならば、先ずは「ギガ」に留めておくべきだろう!!……いやいや、そういう問題では断じてありません。このバイトの悪い所は、次の二点です。一つは勿論食べ物を玩具にしたという点、もう一つは会社の財産を使って業務時間内に行ったという点。
思うに、自腹で豚丼を何個も買って持ち帰り、それを自宅で盛り直して、ちゃんと完食する所までを編集した動画であれば、こういった問題にはならなかったと思います。それをわざわざ吉野家の制服を着た状態で店舗でやったのは、考える事の出来ない脳無しか、功名心(その方が話題になりやすそうだという)ばかりが先に立ってしまう能無しか、その何れかでしょう。

さて、他人のやる事を叩いた後は、自分の反省です。私も常日頃、食べ物を粗末にしている事があるので、反省しなければいけません。
私は仕事柄、色々な施設に私服で客として訪れ、そこの様子を探りに行く事があります。その業務では飲食物を試食する時もありまして、場合によっては一人で食べ切れないくらいの料理を注文したりする事もあります。何とか極力自分の腹に収めるようにしているのですが、「これ以上押し込むと、多分吐く」と思った段階で、やむなく残す事になります。
当然代金は全て支払いますし、客なわけですから、その事について店側からとやかく言われる筋合いは無いのですが、罪悪感を感じます。いつか、私の夢枕にも「もったいないおばけ」が出て来る事でしょう。
                                  駅員@死後は地獄行き間違い無し

2007年12月3日(月)
駅日誌(772) 「青龍」

中国に東西南北を守る4つの聖獣あり。青龍・白虎・朱雀・玄武なり。それぞれ、東を守る青い龍、西を守る白い虎、南を守る赤い鳥、北を守る黒い亀です。中国の都はもとより、平安京や江戸幕府の建立においても、風水を取り入れ、都をその4つの聖獣に囲まれる形にしたそうです。

青龍と言えば……朝青龍が日本に帰って来ました。11月の九州場所は終わり、12月巡業からの復帰です。
あんな横暴をはたらいた朝青龍に浴びせられた言葉は、声援でした。矢張り、現役最強横綱が相撲を取らない事には始まりません。
とは言うものの、朝青龍はこんなに温かく迎えられた事をどう思っているのか、ここは非常に気になるところです。「なーんだ、結局は俺が居ないと相撲人気が落ちるんだろ?」と慢心しているか、「こんなどうしようもない男を見るためにこれだけの人が集まっている。心を入れ替えないと申し訳無い」と心から反省しているか。
公の場では後者のスタンスを取っていますが、知りたいのはその本心なのです。しかし、仮に前者だったとしても、誰にも悟られなければ良いと思います。相撲協会に逆らうのは大いに結構。しかし、ファンをガッカリさせる事だけはいけません。同じ過ちは繰り返さないよう願います。
……とは言うものの、本当は朝青龍を叩きのめすだけの心技体備えた日本人横綱が登場して欲しいものです。東西両横綱がともに外国人というのは、どうにも寂しい。そして、そういう横綱が現れた場合、朝青龍がとことんヒールに走っても良いと思うのです。

青龍と言えば……中日ドラゴンズ。その元エースであり、元監督であった星野仙一率いる北京五輪日本代表のアジア予選が土曜日から始まりました。中日からは、日本最強の二遊間井端・荒木、エース川上、ストッパー岩瀬、どこでも守れるミスター3ラン森野がメンバーです。
土曜日の初戦フィリピンには10-0コールドゲームで圧勝、日曜日第2戦韓国には4-3の接戦の末逃げ切り勝利、そして、今日の第3戦台湾には10-2で圧勝という三連勝での予選通過です。日本シリーズでは苦しめられたダルビッシュも、味方になると非常に頼もしいですね(序盤は冷や冷やしましたが)。
アテネ五輪では苦汁を舐めましたが、北京五輪では大いに期待出来そうです。しかし、北京の八月は物凄く暑いと聞きますし、それに冒頭で述べた4つの聖獣が守っている都でもありますので、御油断召されぬ様。
                          駅員@試合としては第2戦が面白かったですね

2007年12月2日(日)
駅日誌(771) 「ブルーノ・ムナーリ展」

東京都板橋区立美術館にて、「ブルーノ・ムナーリ」展が開催されているとの事なので行ってみました。いや、実は私もこの人の事はよく知りません。にも関わらず行ったのは、広告を見て興味を惹かれたからです。それによると、どうやら仕掛け絵本作家との事。私は芸術の中でも特に、遊び心のあるアートが好きなので、これは観てみなければと思った次第です。

イタリア人のムナーリ氏は今年で生誕100周年だそうで、元々本の装丁を中心としたデザインの仕事をしていたのですが、徐々に芸術家としての活動にシフトして行きます。その中心的な物が、仕掛け絵本なのです。なるほど、シンプルな図柄を用いながら、色々と挑戦的な試みをしている作家でした。特に代表作「nella notte buia(闇の夜に)」は、斬新な手を使った遊べる絵本だと思いました。いや、実は今の世の中ではもう有り触れた手法なのですが、こういう事は早くやった事に価値があるのです。昨今の仕掛け絵本作家の中にも影響を受けている人が多いと思います。
また、オブジェや映像作品等でも、既存の素材を使ってちょっと違えた形で見せてアートとするという、現代アートの魂を見た気がしました。「既存の物をちょっと違えた形で見せてアートとする」と言えば、マルセル=デュシャンの「泉」(ただ男性小便用の便器を横に置いただけの作品です)が有名ですが、それと似ていると思います。
ムナーリの場合はちょっと手を加えている(例えば刷毛の両サイドの毛を三つ編みにしてリボンを付けたり、ストッキングの素材と金属の輪を組み合わせて魚篭のような照明を作ったり)のですが、志向している方向性は近いものがあると思います。
こういう物を観ると、脳が刺激され、仕事や日常生活での発想転換の手助けになると思います。

さて、美術館を出ると、道に興味を惹かれる看板がありました。

「東京大仏通り」とな? という事は、この道沿いに「東京大仏」があるという事か? 早速東京大仏を探しに歩きました。すると、乗蓮寺という寺があり、そこに「東京大仏」の看板があります。石段を上ろうと思うと、その右に閻魔堂があり、閻魔天(閻魔大王)の像が。その賽銭箱に小銭を入れて、石段を登ると……いきなりかい!

たった数十段の石段を登ると、もうありました。
ここの大仏は阿弥陀如来でした。黒光りしています。しかし、どうも新しく見えます。比較的新しく作られた大仏なのでしょうか? 調べてみると案の定、昭和52年に出来たそうです。まだ30歳!
                           駅員@美術館にも大仏にも存外客がいました

2007年12月1日(土)
駅日誌(770) 「仇討ちの是非」

「1人の殺害は犯罪者を生み、100万人の殺害は英雄を生む」――チャーリー・チャップリン「殺人狂時代」より。チャップリンの有名映画の名台詞です。即ち、「殺人は犯罪の筈なのに、戦争では沢山殺した者が英雄扱いだ」という皮肉です。

では、3人の殺害は?
今般、香川県で女性とその孫2人が、女性の義弟に殺害・死体遺棄されるという事件が起きました。当初は行方不明事件という扱いだったのですが、殺人事件として容疑者が逮捕され、その被疑者である義弟は罪状を認めているとの事です。
この義弟は、犯罪者か? 英雄か? 当然犯罪者です。しかし、私の感想としては「殺すのはその婆だけにしとけ!」という事に尽きます。
今回の殺人は一言で言えば「妻(=今回の被害者の妹)の仇討ち」だったとの事。仇討ちは、現代は法では規制されているものの、その意志は十分理解出来ます。癌による病死だったので、姉の借金に因果関係があるのかどうかは分かりませんが、法的に証明出来なかったのであれば尚更、残された道は「仇討ち」しか無かったのかも知れません。
今のところ、私はリスクを負ってまで殺したい特定の個人はいませんが(規制が無ければ殺したい奴は山程いますが)、もしも愛する存在を死に追いやられたら、復讐心が湧くのは詮無き事。これは山口県の少年による母子殺害事件に対して思ったものと近いです。
但し、孫まで殺したのは許し難いです。また、それを隠そうとした事も。
もしも、婆だけを殺して、あくまで「俺は悪を殲滅したのみ! 正義を行ったのみ!」と威風堂々と言い放てば、法は許さなくても、私はこの義弟に同情・支持する事も出来たと思います。
「3人の殺害は犯罪者を生み、1人の堂々たる仇討ちは犯罪者ではあっても英雄たり得た」とも思うのです。

それにしても毎度の事ですが、マスコミの姿勢が気になりました。実際の殺人事件をあたかもサスペンスドラマの様な気分で放送するワイドショー。それだけならまだ良いのですが、出演者がサスペンスドラマの探偵役を気取るからややこしい事になります。ドラマでミスリードされる警部役の足元にも及ばない思考力なのに。
                                           駅員@危険思想?
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